● 恋のバッド・チューニング(5)  ●

「……うん、そんで……?」

 忍足くんの低くてしっとりした声が聞こえてくる。
 二人の足音は教室の前で止まった。
 当然私が座っているのは廊下側だから、聞こうとしなくても聞こえてしまうのだ。
 どうしよう、今からあわてて教室を飛び出るわけにもいかない。
 私の胸はドキドキして、その音が廊下まで響き渡らないか心配になる程。
 少しの間の沈黙の後、「FM東京の彼女」の声が静かに響いた。

「一年の時は、ごめん。私も子供だったと思う。いろいろ侑士の良いところが、わからなかった。だから侑士がまだ私の事、嫌いじゃなかったら……」

 ほらね忍足くん、私の言った通りだったでしょう。やっぱりFM東京はチューニングばっちりじゃないの。
 私は心の中でわざと元気良くつぶやいてみる。

「……そうか、うん……おおきにな。多分、真知子が俺にそない言うてくるん、すごい勇気要ったやろう思うわ……」

 浮かれた声が続くと思いきや、忍足くんは落ち着いて静かな声を返していた。

「……俺も最近また真知子と話すようになって、ちょとワクワクしたりしてな、いろいろ考えててんけど……」

 忍足くんは言葉を探すようにゆっくり話していた。
 彼がこんな風に話すのを聞くのは初めてだった。

「……けど俺な、結局のところあんだけ真知子に言われたけど、あの頃とちっとも変わってへんねん。きっと真知子が思うほど、俺大人ちゃうねんわ。相変わらずアホアホ言うし、ボケもツッコミも要求するしな。考えたけど……やっぱり正直言うて、一緒におってもきっとまた同じ事の繰り返しやと思う。もう少し早うにはっきり言わな思ててんけど、真知子がどういうつもりかわからへんかったし、ごめんな」

 忍足くんて、マトモな断り文句も言えるんだなあ。
 丁寧な口調だけれど私の時と同じで、きっぱりとした返事だ。
 私は彼の言葉に驚いてドキドキする心臓を抱えながらも、そんな呑気な事を考える自分が意外だった。
 早く二人がどこかへ行くといい。
 私は机の上で両手をぎゅっと握り締めた。

「だからな、もう真知子と一緒に帰られへん。じゃあ俺、忘れ物のプリント取ってこなあかんし、もう帰っとき」

 彼女の返事はない。
 それより彼が教室には入って来る気配に、私は飛び上がらんばかりにうろたえた。
 教室の扉が開く音がする。
 そして、入ってくる忍足くんと目が合った。
 彼は一瞬目を丸くするけれど、特に気にする風はなく、
「おう、ちょと忘れ物してん。歴史の課題のプリント」
 そう言って、黙りこくる私の隣りで机の中を探った。
「……あれ、ないわ。どっかやってもうたんかな。、あのプリント持ってる?」
 突然私に向かって言うものだから、私も驚いてそして震える声を押さえながら答えた。
「あるよ」
「さよか、せやったらコピーさしてや。明日提出やからな、今日は持って帰らんとヤバいわ。ちょと、一緒に購買のコピー機んとこまで付き合うてんか」
 私は教室の入り口のところで立っている彼女を恐る恐る見て、そしてまた忍足くんを見た。
「……貸してあげるから、コピー行ってきたら?」
 さっきの話を私が聞いてしまったという事は、私も忍足くんたちも互いにわかっているはずなのに、忍足くんはどうしてこんなに冷静なんだろう。
「どうせもう帰るとこやろ? 購買から戻ってきたら遠回りになるやん。はよせんと、購買かて閉まってまうやんけ」
 彼がヤイヤイ言うので、私は戸惑いながらも立ち上がって廊下に出た。
 うつむいたままで、『FM東京の彼女』の顔は見ない。
 私がここで話を聞いてしまったのは、誰が悪いというわけではないけれど、なんとも申し訳なかった。

 廊下に出て、私は鞄からプリントを取り出しながら足早に購買に向かう。
「忍足くん、早くしないとコピーできなくなっちゃうよ」
 言い出しっぺの忍足くんはのんびりしたものだった。
「ええねん。プリント、実は持ってるねん」
 時に見せる、あの、気持ちを伺えない表情で彼は穏やかに言った。
 私は手にプリントを持ったまま、足を止める。
 忍足くんも私に合わせて立ち止まった。

 私には彼のやった事の意味がわかる。
 そして、彼にも、『東京FMの彼女』にもわかっているはずだ。

「忍足くん、今回のはちょっと違うんじゃない」

 私ははっきりした声で彼に言った。
 彼のポーカーフェイスは一瞬取り除かれた。
 彼がどんな表情だって構わない。
 私は忍足くんを睨みつけた。

「……さっきみたいな事がどういう効果を持つのか、わかってるんでしょう。女の子を断って、その場から別の女の子と連れ立って去って行くなんて」

「……ああ、わかっとる」
 
 彼は静かに答えた。

「本当に忍足くんがプリントをコピーする必要があるんだったら百歩譲って仕方ない事だけど、あんな嘘をついてわざわざ私を連れ出すなんて、ずるいんじゃないの」

 私は泣き出すまいと、何度か深呼吸をする。

「自分の恋にケリをつけるのに、あんな形で私を利用するなんて」

 言うつもりはなかった言葉までが、あふれ出て仕方がなかった。

「今まで忍足くんがどんな事を私に言ってもそれはまっすぐな事だと思ってたけど、これは違うでしょ。私には何をしても傷つかないと思ってるの?」

 私はプリントを持ったままの手を振り上げるけど、それをどうしたらいいかわからなくなって、そのやり場のない手をバンッとプリントごと忍足くんの胸に押し付けて、そのまま彼の顔も見ずに振り返って走った。
 私が忍足くんに何を言ったのか、混乱してよくわからない。
 でも、構わない。
 彼は、ちゃんとわかっているはずだから。



 私はその夜、忍足くんに振られて以来初めて泣いた。
 思えば、それまで振られたからって、がっくりはしたけれど泣いた事なんてなかったのだ。
 今日、放課後の教室から忍足くんに連れられて廊下へ出る時の事を思い返した。
 その時の私の気持ち。
 忍足くんが彼女の告白を断った。彼は私がそれを聞いていたのを知っていたのに、わざと彼女の目の前で私を教室から連れ出した。
 彼女には効果的な一撃だろう。
 私にだってそうだ。
 そんなはずないのに、
『もしかして、忍足くんは私を選んだ?』
 みたいに思ってしまうじゃないの。
 しかも、プリントをなくしたなんて嘘をついてだったら尚更。
でも決してそうではないという事は、嫌というほど自覚しているのに。
 今更私にそんな思いをさせて傷つけて、彼女まで嘘のそぶりで傷つけて、彼はどうしたいのだろう。
 恋愛対象と見られていなくても、クラスメイトとしては悪くない関係だって思っていたのは、私の勘違いだった?
 あんな事をする人だったと、諦めがついて丁度良かった?
どんな風に考えてみても私は悲しくて、胸が痛くて、涙が止まらなかった。



 翌日、席替えのクジを引くまで、私は一度も忍足くんの顔を見なかった。
 今日が席替えで本当に丁度よかった。
 多分、もう彼と話す事はない。
 うん、本当に丁度良い恋の幕切れだ。
 クジを引いて当たった私の新しい席は、また廊下側そして今度はなんと一番後ろと、なかなかに悪くない席だ。
 そう、私はこの席で三年生の新しい門出を迎えるんだ。
 そんな事を考えながらふうっと息をついて鞄を置いた。
 私はちょっと目が腫れぼったい事もあって、忍足くんに限らずあまり人と顔を合わせたくなくて、廊下のほうを向いてぼうっと座っていた。
 周りではクジを引いて新しい席に向かうクラスメイト達で騒がしい。
 私の隣にも人の気配がした。
 ああ、隣の席、誰かに決まったんだ。
 私はちらりと見て、そしてぎょっとした。
 そこには、見慣れた伊達眼鏡に中途半端な長髪のクールな男の子。

「ああ、せや、これ」

 忍足くんは私の隣の席に座ると、私の机の上にプリントを置いた。
 ああ、すっかり忘れていた。
 昨日私が意味もなく忍足くんに押し付けてきた、歴史のプリントだ。見ると、忍足くんの丁寧な字できちんと中身は埋めてあった。妙なところで律儀な人だ。
 私はそのプリントをじっと見たまま、彼の顔は見ない。

「……昨日、すまんかったな。がどう思うのかわかっとったけど、傷つけよう思うてたんとちゃうねん」

 彼の少し戸惑ったような真面目な声に、私はため息をついて顔を上げて、そして驚いた。
 そこには、一年生の委員会で女の子を泣かせた時と同じ顔をした忍足くんがいたから。

「……でもね、傷つくよ」

 私が言うと、彼もため息をついた。

「せやな、ほんま、ごめん。けどあん時、俺、ほんまにに用事があってん」
「用事? 何?」
 私が怪訝そうに聞くと、彼はまたちょっと息を吐いて思わせぶりに首を振った。
「いや、もうええねんけど」
 私はちょっとムッとする。
「何よ、言いかけてやめるなんて、いやらしい」
「せやかて、もう済んでもうたし、事後承諾になってまうもん」
「はあ? 何?」
 私は意味がわからずに聞き返した。

「俺な、ウチのテニス部では『千の技を持つ天才』て言われてるねん」

「はあ?」

 やっぱり私は彼の言ってる意味がわからない。

「せやからな、席替えのクジに細工するなんて、お茶の子さいさいやっちゅうねん」

 私は腫れぼったい目を見開いて、彼を見つめた。
 彼の指先には白い紙切れがあって、そこには今彼が座っている私の隣の席の番号が書いてあった。
 忍足くんはいつものように、眼鏡の奥の目を少し細めて笑う。

「席替えの打ち合わせしようやって話そうと思ててん、昨日。けど、怒って帰ってもうたしやな、しゃーないし、が隣の空いとる席を引くん祈っとったんやんか。ええ席引きよって、ホッとしたわ」

 彼の言葉に、私は何を言ったらいいかわからなくて、バカみたいにプリントを握り締めてぽかんとするばかり。

「おい、聞こえてんのんか? このラジオ、チューニング合うとらへんのとちゃう?」

 彼は私のこめかみあたりを、人差し指でつついた。

「……電池切れかけ」

 私は自分のバカみたいな表情がこれ以上どうにもならないのに気付いて、思わず机に突っ伏してしまった。

「『あいつは元カノやねん』とか話したくらいから、そろそろ気付けやって思ててんけどなあ。『恋は普段の積み重ね』って言うたん、自分やろ」

 気付くかバカ、元々周波数合ってないのに。
あれだけ言われて、二回も振られてるのに。

 私はそんな事を思いながらうつぶせたままでいると、隣りで忍足くんがFMのパーソナリティーのモノマネで『忍足侑士のオン・ザ・レイディオ、この番組は……』なんてしゃべり出す。

 では、リスナーの方からのメッセージです。
『僕のクラスでは明日席替えなんですが、好きな女の子の隣になれるかどうか、ドキドキして眠れません』
 ハイ、東京都にお住まいのラジオネーム『伊達眼鏡』くん14歳からのメッセージでした。
 せやね、席替えはドキドキするなぁ。僕の経験からすると、クジでインチキすればばっちりやで、オススメですわ〜。

 忍足くんのインチキDJっぷりに、私は顔を伏せながら思わずクスクス笑ってしまう。
 聞こえてる聞こえてる、チューニングも合ってるってば。
 これ多分、『もう、いいって!』ってツッコまない限り、えんえんと続くんだろううなあ。
 電池の切れたふりをした私の耳に、バカFMは鮮明な音で心地よいトークを送り続けるのだった。

(了)
「恋のバッド・チューニング」

2007.7.22

<タイトル引用>
作詞・糸井重里,作曲・加瀬邦彦「恋のバッド・チューニング」(沢田研二)

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