●● Baby 何もかも ●●
世の中には、始まったとたんに終わるってことだってある。
いや、もっと正確に言えば、始まる前に終わるってやつか。
今、目の前にいるひとがこれから経験することだ。
「えーと、あと何を書けばいいのかなあ」
晩秋の土曜日の午後。
、と名前を書いてから少し緊張したように彼女は言う。
『一日体験受付簿』という用紙に彼女は必要事項を記入しているところだ。
「あと、生年月日と血液型と、住所と電話番号です」
「あ、ちゃんと全部書くんだね」
彼女が記載している書類の『一日体験』というのは、俺の家の古武術道場の一日体験だ。
「……若くんもいつもこうやって道場手伝ってるの?」
彼女は書類を書く手を一旦止めて、俺を見上げて微笑んだ。
「部活があるんで、時々ですけどね。兄貴が手伝ってることの方が多い」
そう言うと彼女は、すでに道場の真ん中にいる兄貴をちらりと見た。
「あ、やっぱり日吉先輩、いつも道場やってるんだ……」
あ、やっぱり。
じゃ、ないだろ。
アンタ、知ってて来たくせに。
彼女、は兄貴の後輩で、氷帝学園中等部の3年生で、ということは俺の先輩にもあたるわけで……ってややこしいな。
つまり、兄貴と委員会が一緒だった後輩らしい。
去年から時々、他のメンバーと一緒に道場に遊びに来ていた。
俺は知ってる。
彼女が兄貴を好きだっていうことくらい。
そして、『も一日体験をやってみればいいじゃないか』なんて兄貴の軽い一言を受けて、今日道場の一日体験にやってきたというわけだ。
この日、彼女の恋が終わるのも俺は知ってる。
だって、兄貴には恋人がいるから。
その彼女が、今日は道場を手伝いに来るのを俺は知っていた。
は受付簿の記入を終えて、道場に入る。
そして。
兄貴とその彼女で子供たちの指導にあたる姿を目の当たりにして、彼女が玉砕するまで、さあ、あとは秒読みだ。
※※※※※※※
「そっか、日吉先輩、あの彼女とはそんなに長いんだ」
「子供の頃から道場に通ってきてる、幼馴染みたいなもんですからね」
「……そうだよね……」
道場の一日体験が終わった後、思ったとおり落胆した様子のを、俺は送っていくことになった。
彼女が仲間たちと遊びに来た時に、何度か俺が送って行ったことがあるから、何も二人で歩くことが初めてというわけじゃない。
けれど、今日は彼女にとって、そんな以前の何気ない道程とはさぞ気分が違うことだろう。だって、失恋をした自分がこうして俺と一緒に歩いている間、兄貴は自分の彼女を送って行っているのだから。
11月、秋口の乾いたすこしよそよそしいアスファルトに彼女のため息が滑る。
「あ、あのさ、若くん」
ふと彼女は顔を上げて、俺を見た。
「……日吉先輩には、何も言わないでね」
「何をですか」
俺は、わかっていながらそう答える。
「だからさ、あの……」
フン、と軽く息をついた。
「……わかってますよ。アンタが兄貴目当てに一日体験に来たけど、兄貴に彼女がいたってわかったから尻尾を巻いて逃げた、なんて言いませんよ。兄貴には」
彼女は目を丸くして俺をじっとみて、苦笑いした。
「若くん、キツいなー」
一瞬止めた足を、またゆっくり前に出す。
「でも、ありがと。若くんの、そういうはっきり言ってくれるとこ、きらいじゃないよ」
隣を歩く彼女をちらりと見た。横顔は、存外強い。
「うん、大丈夫。私ね、惚れっぽいの。日吉先輩を好きになったのも、去年からずっとつきあってた彼にフラれたのを慰められて、そんなありがちな流れでさ。だから、大丈夫、深刻な片思いってわけじゃないから」
彼女が、俺にいちいち説明してるわけじゃないことくらいわかる。
自分で自分に言い聞かせてるんだ。
「ふうん、そうですか。別に誰が相手でもいいってわけですよね。だったら、俺でいいじゃないですか」
俺がそう言うと、彼女はまた足を止めた。
一歩先に出た俺は振り返る。
彼女は、さっきよりも1.5倍ほど目を見開いて俺を見上げた。
「はあ?」
そして間抜けな声。
「……だから、俺と付き合えばいいじゃないですかって言ってるんです。わかりませんか?」
俺がイライラしたように言うと、彼女は顔を赤くして掌をぶんぶん振り回す。
「若くんが私と? えー、私じゃだめだよー! だって私なんて、この前まで他の彼とつきあってたとこだし、その上、日吉先輩が好きなんて思っちゃってたとこだし、そんな……。若くんには、もっとちゃんとした同級生の子とか……」
「同級生も悪くないですけどね、ガキっぽくて物足りなくて飽き飽きしてたとこなんです」
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
いつの間にか、のどがカラカラだ。
立ち止まったままの彼女を置いて、近くの自動販売機でペットボトルのお茶を二本買った。一本を彼女に差し出す。
彼女は黙ってそれを受け取った。
「帰ったら、兄貴は多分、俺に聞くだろう。『は一日体験どうだって言ってた?これからも通いそうか』って」
俺はペットボトルのキャップを外して、緑茶をごくりと飲む。
一口のつもりが、二口、三口と。思った以上に喉が渇いている。
ふうと息をついてから、彼女をきっと睨んだ。
「そうしたら、俺はこう言います。『ああ、もう彼女は俺のものになったから』ってね」
彼女が何かを言いかける前に、俺は彼女の腕を掴んで歩き出した。
彼女の家がどこかは頭に入ってる。
自宅の門の前に放り出すと、「じゃあ」とだけ言って踵を返して家に向かって走った。
兄貴の友達の、歳上のひと。
男女の恋も知ってる、まぶしいひと。
この俺がいつまでたっても勝てない兄貴のことを、好きなひと。
年齢の差ってのは、一生縮まらないことなど俺だって知ってる。
だったら、他の部分でリカバリーするしかない。
俺は、年上の女だってぐいぐい引っ張っていける男なんだって見せるように。
まずはそうやって肩を並べるしかないんだ。
この先どうするのかって?
そんなこと、考えてあるわけがない。
勝算なんかまったくなかった。
ただ、俺は、始まる前に終わるわけにはいかないんだ。
その夜、そんなことを考えながら窓の外の月を見上げた。
今頃、彼女は叶わなかった恋に泣いているだろうか、それともただ眠っているだろうか。
*******
俺の家の道場の「古武術一日体験」があった土曜日は暖かい日だったが、日曜を挟んだ月曜はぐっと冷え込みが厳しかった。
昼休みに弁当を食べた後、妙に所在ない気分になり、俺は売店に行った。
一昨日、あんな事を言っておきながら、俺はの携帯の番号もアドレスも知らない。勿論、兄貴に聞けば一発だけれど、俺がそんなことをするはずもなく。
今まで売店で、何度か偶然、に会ったことがある。
そんな偶然を、今の俺は望んでいるのか望んでいないのか。
「若くん!」
背中をバシンとたたかれて、俺の心臓は止まりそうになった。振り返ると、。
俺が考えを整理する前に現れた彼女は、いつもの笑顔だった。
「なんだ、ここで会うなら持ってくればよかった。道場で借りたタオル、洗濯したから返そうと思ってたんだ。教室にはあるんだけど」
拍子抜けするくらい、どうでもいい内容。
まさか、昨日の俺のあの言葉、なかったことにするつもりなのか?
俺が思わずむっとした顔をすると、彼女は携帯を取り出した。
「そうそう、昨日、日吉先輩からメールが来たよ」
「……兄貴から?」
彼女はこくりとうなずいて、携帯の画面に視線を落とした。
「『若とつきあうようになったんだって? あいつをよろしくな』だって」
俺は自分の喉の奥が、どくんと波立つのを感じる。
「……で、なんて返事したんですか」
彼女は少し眉尻を下げて、困ったように笑う。
「……何て言えばいいかわかんないから、絵文字を返しといた」
彼女が見せてくれた画面には、いかにも女子が使いそうな絵文字の並んだ画面。なんとでも取れるような絵柄の羅列。
「……あのさ、若くん、」
「タオル!」
とっさに俺は彼女の言葉を遮る。
「授業が終わったら、サロンで受け取ります」
一昨日と同じ。
彼女に何も言わせないまま、俺は背を向けて教室に向かった。
強引に振る舞って女に何も言わせないのが大人の男だなんて、勘違いするなよ。
兄貴のそんな言葉が聞こえてきそうだ。
わかってる、俺はちゃんとなんでもわかってる。
けれど、わかってるのと、できるのとでは別物なんだ。
そんなの、テニスでも道場でも、イヤって言うほど経験してる。
午後の授業は上の空で、そのくせ終わったら終わったで、少しばかりぐずぐずしてから教室を出た。
来るのかどうかわからない女を、どうやって男らしく待っていたらいいのか、俺にはわからなかったから。
俺の考えは杞憂だったようで、サロンには先にが来ていた。手には小さな紙袋。
俺の姿を見つけると、手を振った。
「はい、借りてたタオル。どうもありがとう」
そして、紙袋を差し出してきた。
それを受け取って、俺は少々うろたえた。
これでおしまいにする気か?
「……明日、昼飯!」
「え?」
うろたえた俺は、バカみたいな単語の羅列。
「だから、昼飯。いつもどこで食べてるんです? 弁当か、学食か」
そんな俺の言葉には答えず、彼女はじっと俺を見上げた。
「若くんが土曜日に言ったこと」
静かに言う声は、俺の耳にしみこむ。耳というか、脳に。
「……びっくりしちゃって」
そりゃ、そうだろうな。
「だって、どうして私、って思っちゃってね」
俺は自分の表情が険しくなるのを感じる。
「……だから、そういうの、気に入らないんですよ」
彼女が、え、という表情でで俺の目を見る。
「俺が、いいっていうものを、アンタが自分で悪く言うな」
俺の日本語は正しく彼女に伝わっているのだろうか。
本当のところ、自信がなくなってきた。
背負っているテニスバッグをぐい、と肩にかけ直す。
「……明日のお昼ご飯まで待たないとだめ?」
「は?」
今度は俺が目を丸くする番だった。
「ちゃんと、ありがとうって言わないとって思ってたから。部活終わったら、一緒に帰らない? 私、今日は委員会の集まりがあるから、ちょうど終わるの一緒になると思う」
心臓が爆発しそうだ。
「……ああ、そうですね。終わったらまた、ここで」
さりげなく、あくまでもさりげなく。
こうでいいはずだ、男女の待ち合わせなんて。
彼女は笑って手を振った。
「……じゃあ、また後で」
さん、と名を呼んでみようとしたけれど、それはうまくいかず空振り。
※※※※※
次期部長となるはずの俺なのに。
この日の部活には、若干身が入っていなかったと言わざるを得ない。
授業が終わった後とは違い、部活が終わると俺は大急ぎでサロンへ向かった。
待ち合わせ場所へ。
俺は何も間違えていないはずだ。
一昨日、付き合わないかと告げた女と、今日顔を合わせて、言葉を交わして、一緒に帰る約束をした。
ちゃんと成り立っているはずだ、恋愛というやつが。
校庭を駆け抜けていくと、待ち合わせ場所に彼女はまだいない。
一瞬、背筋が凍りつく。
いや、待て日吉若。
お前はいちいち、動揺しすぎだろう。
どう考えても、俺が来るのが早すぎただけだ。
こういう時は、あれだ。
よく皆がやってるように、退屈そうに携帯でも見て待っていればいいんだろう。
携帯を手にして、はっとする。
そういえば、まだ携帯の番号も聞いてなかった。昼、ちょうど彼女が携帯を手にしていた時、どうして聞かなかったんだ。
チッ、と舌打ちをした瞬間、俺の待ちわびた軽い足音。
「ごめんごめん、待った?」
ちょうど俺の盛大な舌打ちが聞こえたタイミングだったようだ。
「あ、いや、今来たとこなんで……」
あわてて携帯をしまう。
彼女は小走りできたのか、少し肩を上下させていた。
「だいぶ日が短くなったね。この前までこんな時間、まだまだ昼間みたいだったのに」
「ああ、そうですね」
立ち止まっていると妙に間が持たなくて、俺がすぐに歩き出すと彼女も続いた。
「あの、土曜日、ありがとうね」
ありがとう、という言葉を今日は何度か彼女から聞いた気がする。けれど、その意味をどうとらえていいのかは実はわからないままだ。
「びっくりしたんだけど……あの時、日吉先輩に彼女がいたんだなあってがっかりして一人でしょんぼり帰って、泣きながら寝なくてすんだのは、若くんのおかげだったって思った」
「俺は別に……」
アンタをなぐさめようとしたわけじゃない。
そう言いかける前に、彼女が言葉を続けた。
「少し、話してもいい? 私、若くんとは先輩のとこで何度か会ってるけど、あんまり話したことはなかったよね」
彼女の言葉は始終穏やかだ。けれど、俺の胸騒ぎは強くなるばかり。
いつ、言われるのか。
あんなこと急に言われても無理、ゴメン。
そんな言葉が出る前に、俺はどんどん彼女を引っ張っていかなければならないのに。
「私がつきあってた彼ね、日吉先輩の同級生だったんだ」
ああ、知ってる。そいつは見たことはないけど、兄貴からそんな話を聞いたことがある。
「どうしてつきあうようになったかっていうとね、私、彼とつきあう前も日吉先輩にちょっと憧れてて。日吉先輩いいよね、なんて友達と話してて周りをちょろちょろしてたら、いつのまにか彼と仲良くなってつきあうようになってた」
俺はくわっと目を見開いて、彼女の横顔を睨んだ。
そいつは初耳だ。
前の男とつきあう前も、兄貴のことを好きだったって? くそ、兄貴のやつめ……!
「……若くんが言ったように、私、誰でもいいのかなって自分で自分がわからなくなった。 ふらふらしすぎだよね」
「だから!」
つい声を荒げてしまう。
「俺にしておけば、間違いないんですよ。俺は、アンタが前につきあってた男よりも、兄貴よりもいい男なんですから。それで、文句ないでしょうが!」
いいから、俺を好きになれ。
そう続けたかったのに、なぜかそれは言えなかった。
彼女は少し嬉しそうに笑う。
「……若くん、かっこいいしすごくモテそうだもんね」
「当たり前でしょう。でも、同級生なんかにはもう飽きたって言ったじゃないですか」
女となんかつきあったこともないくせに、俺はこの見栄だけは譲れない。
俺の初めての恋なんだと打ち明けることだけは、絶対にできない。
彼女との差を埋める手段が、何一つなくなってしまう。
「私さ」
歩きながら、前を見たまま彼女は言う。
今まで、彼女は話し出す時、いつも立ち止まって俺の目を見ていたから、その感じに少し慣れなかった。
「私、処女じゃないよ。それでもいいの?」
続く彼女の言葉に、俺はまるで爆撃を受けたような感覚。
熱くなった心臓が口から溶けて噴き出しそうだ。
けれど、俺はそれを噴き出すわけにはいかない。
熱を表に出すわけにはいかない。
「……俺だって、さんざんやることやってます。お互い様でしょうが。そんなことどうだっていい」
とっさにそれだけを言って、そのまま歩き続ける。
ただいつもの歩調で何気なく歩くことが、こんなに難しいなんて思ったこともなかった。
情けないことに、その後、何を話してどうやって帰ったのか、俺はほとんど覚えていない。
恋なんてするんじゃなかった。
一瞬そう思ってしまうくらい、自分の中のあまりの多くの感情に戸惑う。
自宅で布団に入ってから、俺はなかなか眠れない。
彼女が今まで誰を好きで、誰とどうつきあっていようが、関係ない。
そう思っていることだけは確かなのに、俺はどうしてこんなに動揺する。
早く俺を好きになれ、他の男のことは忘れろ。
そう言いきかせながら、彼女を抱きたい。
そんな妄想に、いきなり立ちふさがる壁を意識させられるなんて。
「俺、ぜんぜん経験ないけど大丈夫なのか……?」
そんなことが頭をよぎっては、自分で自分に苛立って眠れない夜。
くそ、下らない! そんなこと、どうだっていいはずだ!
布団の中で寝がえりを繰り返していると、ふと机の上に置いた紙袋が目に入った。
今日、彼女が洗濯をして返してくれたタオル。
手に取るとふわりとやわらかく、いい香りがした。
布団の中に持ち込んで、思い切り顔を埋め、香りを肺に吸い込んだ。
彼女を抱くと、こんな香りがするんだろうか。
そんな想像は、俺の胸を焼き尽くすばかりだ。
※※※※※
翌朝の朝練が終わると、俺は慌てて部室を後にして、3年生の教室に向かった。
向かう先は当然、彼女のいる教室。
早足で歩いていると、ちょうど廊下で彼女と鉢合わせた。
「若くん!」
彼女は驚いた顔。無理もない。2年生が3年生の校舎にいるなんて、目立つことこの上ない。
「昼、学食でいいですよね」
有無を言わさずに伝えると、彼女は目を丸くしながらこくりとうなずく。
「あと、こいつ!」
俺は携帯を取りだした。
「番号、わからないと不便で仕方がない」
はは確かにそうだね、と彼女は笑いながら携帯を取り出して、赤外線通信でアドレスを交換した。
心の中で胸をなでおろす。
やっと、なんとかスタートラインにつけた。
そんな気がした。
「若くん、いつも学食で食べるの?」
昼休み、学食で待ち合わせて日替わり定食を食べながら、彼女が聞いてきた。
妙にどきどきしてしまう。
向かい合って一緒に学食で昼飯を食べるっていうだけで、どうしてこんなに胸が熱くなるんだろう。
「弁当の時の方が多いですけどね」
「私も、お母さんが用事あってお弁当ないときだけ学食って感じかな。友達につきあって、学食にお弁当持ってきちゃうこともあるけどね」
彼女の箸の持ち方はきれいで、意外にもりもりよく食べる。下唇がふっくらしているな、と改めて気づいた。
「……昨日、急に変なこと言ってごめんね」
私、処女じゃないよ。それでもいいの?
昨日の彼女の言葉を思い出した。今、あまりに浮かれた気分だったものだから、彼女の言葉の意味が一瞬わからなくて、そして眠れなかった昨夜の気持ちがよみがえり、味噌汁をむせそうになる。
あわてて茶を飲んで味噌汁の具を流し込んでいると、彼女は長いまつげを伏せた。
「おかしなこと言ったから、気を悪くして当然だと思うけど」
チキンソテーに添えられた千切りキャベツを、彼女は箸できれいに寄せてつまんだ。
彼女の指先は細くてきれいで、爪は短く切りそろえられていた。吹奏楽部だったとか聞いた気がする。楽器をやるからなんだろうか、とふと思った。何の楽器をやってたんだろうな。
俺はだめな男だ。
どうして、彼女を不安にさせた。
さんざん強気なことを言っておいて、彼女を安心させることすらできないのか。
「俺が不機嫌そうに見えるとしたらそれは地顔なんで、そっちこそいちいち気にしないでください」
そして、こんなことしか言えなかった。
※※※※※
その日の俺は、コートで練習試合をしても何をしても冴えなかった。
いつもどおりにやっているはずなのに、リズムが合わない。
インターバルを終えてから、もくもくと素振りをする。
道場でも、不調なときはいつもひとりで型をじっくりと繰り返す。
こうやっていれば、きっといつもの自分を取り戻すはずだ。
俺は負けない。
誰にも負けない。
跡部さんにも忍足さんにも、そして兄貴にも。
少しくらい歳が違うからって何だ、関係ない。
俺はちゃんとやれる。
俺は、強い。
彼女にふさわしい男のはずなんだ。
「よぉ」
背後からの聞きなれた声とともに、俺は膝裏をラケットで小突かれバランスを崩した。
振り返ると、宍戸さんが笑っていた。
「調子出ねぇみたいだな、若」
宍戸さんという人は不思議だ。
決して長身でもないし、高圧的でもないのに、妙に大きく見える。
「そんなことないですよ。たまたまです」
俺はぶっきらぼうに答えた。
「次期部長候補がそれじゃ、激ダサだぜ」
懐かしいフレーズに、笑顔。
宍戸さんがまだ俺に何か話すのだろうことを知りながらも、俺は素振りを続けた。
「ほら、それだよ」
ラケットの先端で、俺の肘にちょこんと触れた。
「せっかくのお前の演武テニスのフォーム、珍しくなんだかカタいぜ」
「は?」
素振りの手を止めて、宍戸さんを見た。
俺の独特のフォームについて、今まで監督以外から口出しをされたことなんか一度もなかった。
「打ち易いフォームでやれって、監督に言われてからのお前、鳥みたいだったろ」
「鳥?」
宍戸さんはにやっと笑いながら頷く。
「こう、自由に大きく手を広げて、しなやかに空気を切って打つ。スピードをつけて地面すれすれを飛ぶ鳥が、翼の揚力でふわっと浮き上がるようなそんな感じだった。それまでのお前は、跡部や忍足のあのお手本みてーなテニスのフォームを目指してただろ? けど、結局お前らしくラケットを振り回す方がよかったってことだ」
そんなことはわかってる。何を今更。
俺がそう言いたいのは、宍戸さんはお見通しのようだった。
「次期部長が視野に入って、気負ってんのか? 今までみたいに、もっと翼を広げたほうがいいぜ」
1年生の時、榊監督から『打ち易いフォームで打ってみろ』と言われ、身体が動くままにラケットを振り回したことを思い出す。
その時の、驚くほどの自由な爽快感も。
ふっ、と息を吐きながらラケットを振りぬいた。
「そうそう、それがお前だろ、日吉若」
宍戸さんはそれだけ言って俺の肩をぽんと叩き、キャップをかぶりなおして俺に背を向けた。
俺は黙ったまま、静かに宍戸さんの背中に一礼。
部活を終えて着替えもそこそこに、俺は携帯に登録したばかりの番号を発信した。
「……ああ、もしもし、俺です!」
しばらく呼び出し音が鳴った後、留守電にならなかったことに感謝。
『あ、若くん? びっくりした、どうしたの?』
学内なのだろうか、の声は小声で、それでも驚いた声で話す。
「今、どこですか?」
『卒業アルバムの打ち合わせが終わって、第三資料室を施錠して出るとこ』
「じゃあ、そこで待っていてください」
返事は聞かずに俺は走った。
第三資料室の前で、まずは呼吸を整える。
そして、さっき宍戸さんに言われたことを思い出した。
揚力。
バッグを廊下にどすんと置いて、いつものフォームで構えてみる。
しなやかに、大きく、空気を切るように。
スピードをつけた鳥が、羽根を広げて地面すれすれを飛ぶ姿をイメージする。
翼と地面はこすれあうようになるが、スピードは落とさない。翼と地面の間の空気がスピードによって力を増し、鳥を空に持ち上げる。
そんなイメージを頭に抱きながらフォロースルーをした右手を、そのまま天に突き出した。
この手に掴めないはずがない。
俺は他のどんな男でもない、日吉若なんだから。
「何してるの、若くん」
「うわ!」
資料室の扉から顔をのぞかせたさんに、俺は廊下でこぶしを突き上げている間抜けなポーズをバッチリ見られてしまった。
「宇宙人との交信?」
冗談めかして言う彼女に、俺はまたいつものぶっきらぼうな顔をしてしまう。
「そういうのは屋上でするもんでしょうが。こんなとこじゃ、やりませんよ」
俺はバッグをひっつかんで、資料室にぐいと身体を押しこめた。
「言っておかないと、と思ったことがあるんです」
「ん?」
さっき廊下でしそこねた深呼吸を、俺は今ここでする。
「実は俺、嘘をついていたり隠していたことがあります」
俺が翼を広げて日吉若でいるためには、彼女に俺の姿を見せなければならない。
「ん?」
彼女は不思議そうな顔をして、もう一度首をかしげる。
「……去年、初めてさんに会ってから、ずっと好きでした。俺はそれまで、恋なんかしたこともなかった。さんが恋人と別れたと兄貴から聞いて、絶対に俺のものにしたかった。恋のしかたなんか、ぜんぜんわからないのに」
不思議だ。
あれこれ考えたのに、言うことはこれだけ。
「今日、学食で昼飯一緒に食べて、俺はやっぱりさんが好きだと思った。さんはどんなことで泣いてどんなことで笑うのか、今までの辛かったことや楽しかったこと、そんな話がしたい」
さんはじっと俺の目を見ながら、聞いていた。
空は晴れるだろうか。
俺は飛べるだろうか。
「土曜日、道場からの帰り。若くんが怒ったみたいな顔で『俺とつきあえばいいじゃないですか』って言った時、私ね、あっという間に若くんを好きになっちゃったんだよ」
足元の空気が熱を持ったような気がした。
「だけど、私、そんなのダメでしょ。ちょっと前まで彼がいて、そしてその後にすぐ日吉先輩を好きになってあっという間に失恋して、数時間後にまた恋をするなんて」
ダン!
俺は彼女が立っている傍の壁を拳で打った。
びくりと、驚いて俺を見上げる彼女。
「だから! そういうの、関係ないって言ってるじゃないですか! 俺は、アンタと違って恋なんか他にしたこともないけれど、でも……」
壁に拳を押し当てたまま、ぐいと彼女を睨みつける。
「いいか、俺は、アンタが今までにしたことのないようなキスをしてやる。だから、俺を甘く見るな」
やり方なんて、知らないけれど。
壁に押し当てている拳のやり場がなくて、ふわりと指を開いてから彼女を抱きしめた。
昨日、受け取ったタオルと同じ香り。
彼女がこれ以上何も言わなくていいように、ぎゅっと胸に顔を押し付ける。
身体の重みが任され、熱が伝わってきた。確かに、しっかりと。
今は、それで十分。
ありがとう、愛してます。
(了)
タイトル引用:忌野清志郎「Baby
何もかも」
2012.11.14