● Baby-G  ●

 部活の朝練を終えてしばし部室で資料の整理をしていた蓮二は、思った以上に部室を出るのが遅くなってしまい、少々焦りながら教室へと向かっていた。
 ポケットに入れている腕時計を取り出して、ちらりと時間を確認する。なんとか始業には間に合いそうだと胸をなでおろしながら、早足のまま校庭を横切った。
 遅刻をおそれてあわてて走っている生徒も目につく中、校庭の植樹の側のベンチでのんびりと座って空を眺めている女子生徒が蓮二の視界に入る。
 思わず足を止めた。
 なぜなら彼は生徒会役員の一人であり、明らかに遅刻をしようとしている生徒を見逃すわけにいかない。
 ちなみにその、始業時間が迫ってものんびりと座ったままの彼女は、生徒会総会の委員の一人でありながら、今年になって一度も会議に現れていない生徒だった。
!」
 蓮二は彼女の名を呼んで、つかつかと歩み寄った。
「もうすぐ始業だぞ。何をのんびりしている」
 よく通る声で彼女に呼びかけるが、彼女は相変わらず上空を見つめたまま。このあたりに他に人はいない。蓮二が声をかけている相手は彼女しかいないとわかっているはずなのに。
!」
 もう一度名を呼ぶと、彼女は『待って』とでも言うように右手をすっと蓮二にむかってかかげた。
 その表情はやけに真剣で、まるで上空になにかを探しているかのようだった。
 彼女が手をかかげている間、なぜか蓮二はそれ以上話しかけることができない。そして、その場を離れることもできなかった。
 しばし上空を見つめ続けていた彼女の左手から、小さな電子音がした。腕時計のアラームだ。
 彼女はまるでずっと息を殺していたようで、ふううっとそれはそれは大きな溜め息をついた後、アラーム音を止めた。
「おはよう、柳くん。うん、もう教室に行くから」
 彼女は笑って言った。
 蓮二は彼女と同じクラスになったことはないし、一度も口をきいたことはない。初めて耳にする彼女の声であった。
「ああ、そうしたほうがいい。……ところで、何を見ていたんだ?」
 先程の不思議な儀式に、彼は少々興味を持った。
「ああ、さっきの?」
 彼女はくすっと笑って腕時計を指先でなぞった。
 パールホワイトのスポーツタイプの時計。
 G-Shockの女性用のものだ。たしかBaby-Gというシリーズか、と蓮二は観察しながら思い返していた。
「さっき私が空を見上げてた1分間に、飛行機が見えたら私は死ぬ。見えなかったら、生きていてもいいって、一人で賭けをしてたの」
 彼女がそう言い終えた瞬間、立海の上空を旅客機が白い飛行機雲を残して横切るのを、蓮二はちらりと首を傾けて眺めた。
 同じくそれを眺めていた彼女と目が合い、思わず彼はフフッと笑う。
「危機一髪だったな。それにしても死ぬとは穏やかではない」
「別に、すっごく死にたいわけじゃないの。今だって、ほぼ確実に飛行機の通らない時間の1分間を選んでアラームをセットしてたしね」
 彼女も軽やかに笑いながら言った。
「そうか、なるほどな。しかし、もしその1分間に飛行機のが通ったら、どうやって死ぬつもりだったんだ?」
 これもまた、彼の興味の赴くままにたずねてみた。
「これよ」
 彼女は膝の上に置いていた文庫本を開いて見せた。
 ちょうど栞のように、薄い四角いものが挟まれていた。薄い青の紙につつまれている両刃のカミソリだ。
「ほう。準備は万端のようだな。しかし手首を切ったくらいでは死ねないらしいではないか」
「いやだな、柳くん。私も、それくらいは知ってる。ほら、ここ」
 笑って、首元を人差し指ですうっと横になぞった。
「頸動脈をすぱっとやれば、死に至るくらいの出血はするはずだから」
 彼女の言葉に、蓮二はなるほどとうなずく。
「そうか、それは確かに確実だ。しかし、もしここでそれを実行したとすると……」
 彼はぐるりと周囲を見渡した。
「ここには一昨年の卒業生の記念樹である欅が植えてある。きっと大きく育てば、木陰は生徒達の楽しい語らいの場となるだろう」
「うん、告白シーンとかもあるかもね、将来」
 彼女は蓮二の言葉を真剣に聞きながら相槌を打つ。
「そうだ。だから、この木が大きく育った頃、もしも、『この木は古い卒業生の血しぶきを浴びてそれをたっぷり吸っているのだ』などという伝説が伝わったら、後輩が気の毒ではないか?」
 ゆっくりと話す彼を、じっとみつめてしばし考え込みつつ彼女は口を開いた。
「……それは確かにそうね。私だったら、学内の植樹にそんなケチがついてたらイヤかも。とりあえず、今後、記念樹の前ではやめておくわ」 
 そう真剣な顔で言いながら立ち上がった彼女は、存外身長が高かった。
「ほら、もうすぐ授業始まっちゃうよ」
 彼女に言われて時計を確認する。
「む、そうだな、それでは失礼する。ああ、そうだ
 彼女と顔を合わせたら言わねばならないと思っていたことを口にした。
「そろそろ委員会には顔を出せ。お前のクラスにだけ情報が伝わらなくて、皆が困るぞ」
 彼のその言葉には、彼女はハイハイとゆるい笑みを返すばかり。
 校舎に向かいながら、蓮二は一度振り返ってみたのだが、彼女はまだのんびりと鞄を振り回したりしており、教室へいそぐ様子はなかった。軽い溜め息をひとつ残して、蓮二は教室へ向かう。

 彼女……は、少し変った女子生徒だった。
 学校の成績は、どちらかといえば上位。といっても、極めて高得点を取る科目とそうでないものの差が激しい、といったタイプだ。
 整った顔をした美しい少女で、同級生の中でも大人っぽい方であり、よく目立つ。
 となると、クラスの女王様タイプにでもなりそうなわけだが、彼女の場合そうではなかった。
 学校にも遅刻がちであったり、委員会にも顔を出さなかったり、とにかく気まぐれだ。そして、ほとんど同級生と口をきかない。
 つまり、まったく孤立した存在だ。
 今日、初めて会話をした内容と彼女の声は、蓮二のデータに初めて蓄積されたものだった。



 その日の昼休み、教室で弁当を食べようとした蓮二はふと思い立って弁当を広げるのをやめ、それを手にして教室を出た。
 普段彼が滅多に訪れることのない場所へだ。
 階段を上り、おどり場をまわって扉を開けてたどりついたのは屋上。
 屋上の中でも一段高い、給水塔のあるところへはしごを上がる。
 上がりきったところで、蓮二はフッと口元をゆるめた。
 給水塔にもたれかかって空を見上げているがいた。
 彼に気付いたは、ゆっくり体を起こして視線を合わせる。特に表情は変えない。
「邪魔か?」
 歩を進めて、彼女と同じように給水塔にもたれて弁当を広げながら彼は言った。
 普段、日の当たるところで弁当を食べる習慣のない彼だが、このところの陽射しの弱い涼しげな天気ならば許容範囲内だ。
「……そう尋ねられると、答えは、正直、邪魔」
 は体を起こしたまま、言う。
「そうか。では質問を変えよう。俺もここで弁当を食べてもいいか」
「あ、うん。それは別に構わない。邪魔だなとは思うけど、我慢できないほどではないから」
 は穏やかに言う。決して嫌味ではなく、一生懸命言葉を探して誠実に答えている様子だ。
 蓮二はフッと笑った。
「それはよかった。じゃあ、ここで食べさせてもらおう」
 彼がそう言うと、はふわっと笑った。
「……は飛行機が好きなのか?」
 はすでに弁当を食べ終えているようで、その小さい弁当箱の蓋は閉じられていた。
「うん、そうね、好きな方かな」
「それで、飛行機が通る時間をよく見てるのか?」
 朝、『ほぼ確実に飛行機の通らない時間の1分間を選んでアラームをセットしてたしね』と言っていた彼女の言葉を思い出して尋ねた。
「うん、見てたら覚えちゃうからね。旅客機の飛ぶ時間は、季節によって少し変わるけど、今日のあの時間帯だったら、7時37分、7時42分、7時58分と8時前は少したてこんでて、8時をすぎたらしばらく通らない。今朝柳くんが話し掛けてきたのが、8時16分40秒。そして、キャセイパシフィックエアーが8時17分25秒に通ったでしょ」
 空を見上げながら彼女はよどみなく言った。
「ああ、俺の時計でもおそらくそれでぴったりだ」
 彼がそう言うと、は視線を蓮二に向けて少し驚いた顔をして、そしてふわりと笑った。
「柳くんも、電波時計?」
「そうだ」
 おそらく、目にするもの全てを正確に記憶していく性分なのであろうの感覚を、蓮二はよくわかった。
 ちらりと彼女の手元を見ると、例のパールホワイトのBaby-Gはそのままだったが、あの剃刀のはさまった本はない。おそらく今はあの一分間のカウントをすることはあるまい。
「朝は時間がなくてきちんと伝えられなかったのだが。は国際交流委員だろう? 実は明日、委員会がある。今まで二回開催してきたが、は一度も来ていないな。明日は出席をしろ。話し合って決議をしなければならないこともあるのだから」
「……それは、私も参加しないといけないの?」
「そうだ。話し合って決議をするということは、各クラスの代表が集まらねばならない」
「代表っていっても、私、自分がいない間に勝手に国際交流委員に決められちゃってたんだよ。代表っていうわけじゃないと思う」
「欠席裁判であっても、結果的にはが国際交流委員に選ばれたわけだ。委員会でもがいない間に、何かが勝手に決められないためにも出席しておけ」
「でも、出席しても、話し合いの間結局ひとことも意見を言わない人だっているでしょ? そういうのっていてもいなくても同じじゃない。だから、一人や二人出席してなくても、決まるべき事はきちんと決まっていくんじゃない?」
「出席して意見を言わないということは、つまりそこで出ている意見を是としているということになる。そもそも出席していないということとは意味合いが違うだろう?」
 彼が言うと、はしばし考え込んでから、やっと肯いた。
「……うん、そうね、じゃあ明日は出る」
 その長い睫毛を伏せて、少し憂鬱そうにため息をつく彼女は真剣な顔で続けた。
「……柳くんて、変わってるね」
「俺がか?」
「そう。だって、受け答えがはっきりして丁寧。私が人と話すと、たいてい怒らせてしまうのに」
 蓮二は弁当箱を置いて、くっくっと笑った。
「ああ、KY、とか言われるんだろう」
「そう、そのとおり。よくわかるね」

 美人で頭もいいけど、わざとやってるのか空気読めなくて、苛々する。かかわりあいたくない。

 それがに関する、一般的評価だった。
「私からしたら、どうしてみんな、そんなに空気読めるの!? って不思議なんだけど」
 彼女は苦笑いをした。
「気にするな。読めてるふりをしてる奴も沢山いるんだ」
「ふりだけでも、できるだけいいじゃない。私はだめねー」
 はうんざりしたように、ため息をついた。
「今はまだ、私は空気読めないからあんまり人と話さないようにしようって心がけてるだけマシだけど、1年の時とかはもっとわかんなかったからなあ」
 思い出し笑いをして、蓮二を見た。
「1年の時のクラスでね、隣の席の男子とちょっと仲良く話してて、その子が『今度、クラスの皆でお茶でもしに行こうぜ』って言うの。だから、私は『今度っていつ? 皆って誰と誰? お茶しに行くって、一緒にケーキ食べてもいいの? お茶だけじゃないとダメ?』って聞いたんだけどね、そしたらドン引きされた」
 蓮二はつられて笑う。
「私、何でも言われたことって真に受けちゃうのね。それで人と話がかみ合わない。それに何でも正確に覚えてる方だから、『あの時のあれはどうなったんだろう』とか気になって、それで追及すると『しつこい』っていわれる」
 緩い風に揺れるの髪を見ながら、蓮二はゆっくりうなずいた。
「それは皆が、犬を世話するやりかたで他の動物を飼おうとするから混乱するんだ。は、その生態や飼育法が明確になってる犬みたいな生物じゃないだろう?」
「……じゃあ、私は何?」
 は不思議そうに蓮二を見上げた。
「そうだな。きっとガラパゴス島とかに住んでいる、見たこともないような生物だ」
 は目を丸くした。
「ああ、そうか。飼育係の人が、犬だと思って接してるのが、実はガラパゴス島のわけのわかんない生物だから、『この犬、お手もお座りもしねーし、まったくダメ犬だ!』ってなっちゃうのね」
「そのとおり」
 はそのふっくらした唇を、カットしたオレンジのようにひろげて笑った。
「柳くんは私がガラパゴスの何かヘンな生物だって、ちゃんとそう見えてるから、別にびっくりもしないし怒りもしないのね」
「まあな」
 蓮二の隣で、が立ち上がる。
 スカートから伸びた長い脚が、ちょうど蓮二の目線に入った。
「柳くんて、やっぱり変わってる。でも、賢いね。明日の委員会は、ちゃんと出るから、よろしく。じゃあね」
 スカートをひらめかせて、彼女は給水塔から降りて行った。
 彼女の姿が視界から消える頃、空耳のように、今朝耳にしたBaby-Gのアラーム音が蘇る。
 ガラパゴスからやってきた不思議な生物であるMiss-Gは、この世界ではやりにくくて、いつも飛行機を探しながらああやって1分間をカウントしているのだろうか。
 自分が生きていることに迷いを感じながら。



 翌日のホームルームの後、生徒会総会の委員会として国際交流委員の会議が開催された。
 会場となる教室にいち早く入って書記の準備をしている蓮二の視界に、見覚えのある姿勢のよい生徒の姿が入ってきた。
 だ。
 彼女はきょろきょろと教室を見渡し、少し戸惑ったように蓮二を見た。
「柳くん、私、どこに座ればいいの?」
「ああ、席は特に決まっていない。好きな場所に座れ」
 まだ委員は半分ほどしか集まっていなくて、席はたくさん開いていた。
「……そこが空いているだろう。そこでいいんじゃないか?」
 書記である蓮二は一番前で皆を見渡すような席に座っており、彼女をそのすぐ前の席に促した。
 はほっとしたように、そこに腰をおろす。
 先に来ていた委員の生徒たちは、彼女が現れたことが物珍しいのか、話しかけはしないもののちらちらと視線をよこしていた。やはり、彼女の風貌は目立つようだ。
 会議の開催時間が迫り、生徒たちも集まり始め定刻にスタートとなった。
 今日の議題は、まず4月に開催された中高合同のみそ田楽大会に関する報告と反省、そして次年度に向けての計画の立案だった。
 会議が始まると、担当者によってすらすらと報告がなされた。
「それでは、次年度に向けての話し合いを行います。何か意見があれば、忌憚なく出してください」
 委員長が審議の開始を言い渡す。
 すると、まっさきにが手を上げて立ち上がった。
 蓮二は書記をする手を止めて、彼女に視線をやった。
「前回と前々回を欠席してすいません。3年D組のです。あの、質問したいんですが、そもそもこの委員会は国際交流委員っていうのに、どうしてその業務は中高の合同イベントがメインなんでしょうか。そして、どうして国際交流大会で、みそ田楽なんでしょうか。どうにも納得がいかないんですけれど……」
 一気に場の空気が冷えていくのを、蓮二はありありと感じた。
 生徒たちは、戸惑った表情で互いに顔を見合わせる。
「……それはだな、
 一同が黙り込んだ中、蓮二が口火を切った。
「委員会が発足したそもそもの背景としては、この中・高・大と一貫教育である立海大附属の教育の中で国際交流が重んじられているという点があり、その一端を担う生徒の自主的な動きをつかさどる委員会として、国際交流委員ができたのだ。が、歴史を重ねる中で、立海の国際交流というものは非常に発展してきており、今は個々の生徒や各委員の活動の中でわざわざこの委員会が仕切らずとも、自然に国際交流ができてきている。なので、現在ではほとんど見守りという段階になっているのだ。はっきり言えば、国際交流委員というのは少々形骸化してきており、残っている大きな仕事が春の国際交流大会となっている。そして、そのイベントの名前も、ある程度形骸化してきているものだと理解してもらえればいい」
「……」
 彼の説明に、は若干釈然としないような顔をしつつも、席に座った。
 委員の皆は、あいかわらずシンと静まったまま。
「……がこういう話し合いに入ると、ぜんっぜん話すすまなくなっちまうんだよな」
 どこかから、ぼそっとそんな声が聞こえた。
 はぴくりと肩を動かすが、特に声の主を見ることはしない。
 蓮二はあわてることなく、再度ペンを手にした。
「しかし、もっともな疑問ではある。まあ、春の国際交流大会が皆の楽しみにしているイベントにはかわりないんだ。さて、次年度についての案は何かないのか?」
 そして彼がそう言うと、生徒たちは隣同士でがやがやと話しはじめる。それぞれのクラスでの案などを言い合っているのだろう。
「はーい、3−Aですけど、ウチのクラスではところてん大会がいいっていう意見がありましたー」
「あっ、ウチでは……」
 ワイワイとそれぞれの意見が出ている中、は左手の時計を大切そうに指でなぞりながら窓の外を見るばかり。

 委員会が終ると、待ってましたとばかりに皆が帰り支度をする。

 少しぼーっとしているに、蓮二が声をかけた。
「あ、柳くん。やっぱり私、KYでごめんね」
「いや、別にあれはもっともな意見だから、俺は別に構わないと思うぞ」
「うーん、なんかね。だったら、この委員会の名前が『春の大イベント委員会』ってなったらいいと思うの。そうしたら私も納得して、じゃあ来年の春のイベントは何がいいかなあってワクワクして考えられるんだけど。国際交流委員会って思うと、じゃあなんでそれで来年はところてん大会なワケ?って、もう気になって気になって、しょうがないんだよね」
 ふうっとため息をついた。
「まあ、そのあたりは妥協していかないと仕方がない。この世の中には、建前や形骸化したものが多いからな」
「ガラパゴスからやってきた生物には難しいね」
 蓮二の耳元で小さく言って、くすくすと笑う。
 まるで、飼育係の前で安心した生物のようだった。
「あっ、ねえ、さん」
 その時、帰り支度をした女子生徒の一人がに声をかけた。
「西高の青山くんって、最近いっつも女の子と一緒にいるの見るけど、さんとは別れたの?」
 二人連れのうちの一人が、無邪気なような顔で言った。
 は一瞬目を丸くするが、表情は変えない。
「うん、そう」
「あっ、やっぱりそうなんだー。青山くんって面白いけど、ちょっとおバカだもんねー。でも結構人気だったから、ウチでも狙ってる子多かったんだよー。フリーになってるんだったら、教えてくれればよかったのにぃ。さん、ずっと青山くんのプレゼントの時計してるから、別れたなんて知らなかったよ」
「……ああ、ごめん。聞かれなかったから」
 彼女が答えると、二人連れはあいまいな笑みを残して教室を去った。
 一瞬、蓮二が何とはなしにその二人連れに目をやっていると、はいつのまにか鞄を手にしていた。
「じゃあね、柳くん」
 はそれだけ言うと、ひらひらと手を振って教室を出て行く。
「あ、ああ。……じゃあな」
 皆が教室を出た後、蓮二も書記をしていたノートを片付け教室を出る。
一旦、普段どおりに部室に向かうのだが、少し考えて、まったく違う方向へと踵を返した。
 そして、普段なら決して走らない廊下を、蓮二は走った。
 ポケットの中の腕時計を見て、その足を一層早める。
 全速力で廊下を走って、階段を二段飛ばしで上がる。
 向かう先は、昨日、の隣で弁当を食べた屋上の給水塔。
 屋上に着くと、鞄をそのまま放ってはしごを上った。
 そこには、昨日と同じように給水塔にもたれかかって空を見上げる
 足元には、鞄から取り出された文庫本。
 左腕にはパールホワイトのBaby-G。
「……!」
 若干呼吸を乱した蓮二は、昨日のように彼女の許可は取らず彼女の隣に滑り込んだ。そして、彼女の左手を掴むと、器用にそのベルトを外しBaby-Gは蓮二の手におさまった。
「柳くん!」
 さすがに驚いたは声を上げる。
 彼女に構わず、蓮二は時計を操作してタイマーを解除した。
 それとほとんど同時に、ふたりの上空を飛行機が横切る。曇り空の今日は、そのジェット音が低く響いた。
、この時計を俺にくれないか」
 続く彼の言葉に、はあいかわらず驚いた顔。
「ええっ? どうして?」
 Baby-Gを握り締めたまま、彼は生徒手帳を取り出して見せた。
「今日は俺の誕生日なんだ。誕生日プレゼントに、この時計が欲しい」
 は蓮二の生徒手帳をじっと見た。
「6月4日。ほんとね、今日が誕生日なんだ」
 そして生徒手帳と、突然蓮二の手に渡ったBaby-Gを交互に見比べる。
「でも、それ、女性用よ?」
「かまわない。俺は、腕にはパワーリストを巻いているから、腕時計といってもポケットに入れていることがほとんどで、女性用であろうとなんだろうと関係ないからな」
 なるほど、というように肯きながら、はBaby-Gから視線を蓮二に向けた。
が時間を知りたくなったらいつでも俺に聞け。そして、生きるか死ぬかの賭けをする1分間を測定したいと思ったら、その時もいつでも俺を呼べ」
 静かに丁寧に言う蓮二をじっと見るその目は、ひどくまっすぐで。
「……どうやって呼んだらいい? 現実的には携帯かなあって思うけど、そうしたら携帯電話で時間もわかるし、アラーム機能もついてるしね」
「声を出せばすぐに俺に聞こえるところにいればいい」
 なんでもないように彼が言うと、はふっと口元をほころばせた。
「ああ、そっか。なるほどね。うん、じゃあそれ、あげる。お誕生日おめでとう」
「うむ、ありがたくもらっておく」
 蓮二は時計をポケットにしまった。
 ガラパゴスからやってきた謎の生物であるMiss-Gを飼育するための時計、パールホワイトのBaby-Gを。

(了)
「Baby-G」

2008.6.5

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