● あの夢の続きを、君と。  ●

「げひゃぶー!」
 首藤くんが叫び声を上げながら砂浜を転げ回るその隣で、穏やかに佇んでいるまぶしい笑顔が、佐伯くんの第一印象。
 1年生の時のゴールデンウィーク明けの頃の話。
 当時、私は潮干狩部のルーキーで、5月の潮干狩学内新人戦で見事優勝。
 大会が終った後のアサリパーティーで、初めて私が作ったアサリのみそ汁を、隣の部室のテニス部に持って行ったのだった。
 新人戦優勝の1年生は、自らアサリのみそ汁を作って周りの部の子たちにも振る舞うというのが、我が部の伝統らしいので。
 優勝したのに、なんでこんな下働きみたいなことを、と釈然としなかったけれど、まあ仕方がない。
 それで作ったみそ汁をテニス部に持っていったところ、冒頭のような奇声がリアクションだったわけだ。
、お前! な、な、なんてしょっぱいみそ汁食わすんだ! 高血圧で俺を殺す気か!」
 リアクション芸人ばりの首藤くんは、顔を真っ赤にして私に向かって怒鳴りつけた。
「え? そんなにしょっぱかった? ごめん、味見してなくて。だって、沸騰して煮たら、火を消してから味噌入れて混ぜるでしょ。あつあつのうちに食べてもらった方がいいかなと思って、急いで持って来たの」
 そんな言い合いをしている中、まあまあ、と佐伯くんが割って入って来てくれた。
「どれ?」
 彼は、みそ汁をよそったお椀に軽く口をつけると苦笑いをした。
「はは、確かにしょっぱすぎるね。いっちゃん、どうかな」
 彼が声をかけたのは、いっちゃんこと、樹くん。樹くんは、私も同じクラスだからよく知ってる。テニス部だったんだ。
 いっちゃんも軽く味見をしてくれた。
「しょっぱいけど、しっかりアサリのダシが出てるから、ちょっと治せば美味しくなるのねー」
 いっちゃんは私が持って行った鍋を、テニス部のコンロにかけてちょいちょいと手直ししてくれた。彼は家が食堂をやってるっていうから、料理はなかなか得意みたい。
「おっ、美味いじゃねーか!」
 いっちゃんの手が加わったアサリ汁がすっかりできあがった頃に出て来て、ぐいぐいおかわりするのは、黒羽くん。
「なんだよ、バネ! お前は味見なしで、美味しいとこどりかよ!」
 首藤くんが不満そうだ。
「いいじゃねーか、これから潮干狩部が何か持って来た時は、首藤、お前が毒味係な!」
「毒味とは失礼ね!」
 そんなやりとりの中、佐伯くんは静かにそれでもすごく楽しそうに笑ってた。
「ね、どう? 佐伯くん、美味しくなった?」
 心配そうに尋ねる私に、ごくりとお椀を傾けた彼はまたお日様のような笑顔。
「うん、美味しいよ。採れたてのアサリのダシがよく出てるから。さんも飲んでみなよ」
 そのお椀を私に差し出してくれる。おそるおそるひとくち。
「うわ、ほんと、美味しい」
「おいおい、言っとくけど、いっちゃんが手を加えたから美味しくなったんだぞ!」
 首藤くんが茶々を入れるのは無視。
「よかった。これからいろいろ採れたら、また持って来るね」
 そう言うと佐伯くんはにっこり。王子様みたい。
「ありがとう、みんなで楽しみにしてるよ」
 その笑顔と彼の周りのなんともいえない柔らかな空気を、私はずっと忘れられない。
 それ以来、彼は私にとって特別な男の子だ。

※※※※※

「そうだ、。今日はいっちゃんが、家から余った野菜を持って来てくれたから、部活が終ったら久々にちゃんとしたバーベキューでもしないかい?」
 佐伯くんと同じクラスになったのは、2年生になってから。
 テニス部と潮干狩部は仲が良くて、その頃には私はもう彼のことをサエさんと呼ぶようになっていた。そして、彼も私のことを、と。
「やるやる、部のみんなにも言っとく! ハマグリとか海老も採っとくね! たしか、イカの一夜干しもあったはず」
 こういう時は、漁業権の認可を受けてくれてるウチの学校に感謝!
 そして、潮干狩部としても鼻高々ってもんよ。
「それにしても、いっちゃんて貝を見つけるのも料理も上手いし、ウチの部に来ればいいのになあ」
「ははは、1年の時からずっと言ってるね。だめだよ、いっちゃんはテニス部の大事な戦力なんだから」
 サエさんは笑って言う。
 多分、彼と初めて出会うのが教室だったら、「うわ、なんてかっこいい男の子!」って思うだけだったかもしれない。
 サエさんは、かっこいいし優しいし人当たりはいいし頭はいいしスポーツはできるし、とにかく完璧な王子様なんだよね。
 けど、テニス部の中での静かで、特に何かを言うわけでなくても、いつのまにか皆を包んでいるあの雰囲気。
 あれから何度も彼と海辺で遊んだり話したりしているけれど、テニス部の中でのあの静かな佇まいが、彼の一番好きなところ。
 
 好き?
 そう、好き。
 私は、サエさんのことが好き。
 でも、もちろん、そんなこと口に出したことはない。
 だって。
 テニス部の部室は潮干狩部の隣で。
 採れた貝やなんかを持って行って潮干狩部のみんなで遊びに行くと、いつもサエさんは楽しく話をしてくれて、部活が終ったらみんなで海に入って遊んで、一緒に帰って。
 中学生の恋心を満たすには、それで十分楽しいんだもの。
 それに、私がおかしなことを言い出して、そんな楽しい時間が終ってしまうのが怖かった。

 3年生に進級しても、私はサエさんと同じクラスになって、飛び上がるくらい嬉しかった。
 けど、教室で彼を見ていると、不思議な気持ちになる。
 私はサエさんが好きだし、潮干狩部はテニス部と仲がいいから、私はそれなりに彼のことはよく知っていると思う。
 それでも、ふと気づくと、私はサエさんのことを何も知らないような気がする。
 かっこよくて優しくてテニスがすごく強くて、完璧な王子様みたいなサエさん。
 サエさんは本当に誰にでも優しい。よく気がまわる。彼が怒るところなんて見た事がない。
 けど、サエさんが一番大事にしているものって何だろう。
 彼は何を考えているんだろう。
 佐伯虎次郎は確かに私の目の前にいるのに、私は彼を好きなのは確かなのに、どうしてこんなにつかみどころがないんだろう。

※※※※※

「焼き肉を食べて来たよ」

 オジイはもう大丈夫? 全国大会、残念だったよね。なんてサエさんに言ったら、そんな返事が返って来た。
 今日は夏休みの終わりと、全国大会おつかれさま会を兼ねてのバーベキュー。
「焼き肉屋では夏合宿以来久々に、首藤の『げひゃぶー!』を聞いたぜ。1年の頃は、が何か持ってくるたび、しょっちゅうだったもんな」
 焼き上がった海老の皮をアツアツとむきながら、バネさんが笑って言う。
「そんなの、ちょっとの間だったじゃない!」
「そうなのねー、俺がちょっと教えたら、すぐアサリ汁作るの上手になったのねー。さすが、部長なのねー」
 優しいいっちゃんがフォローしてくれる。そう、私は3年になって潮干狩部部長となった。
「そうだよ、ほら、このイワシを酢じめにしたやつだって、いっちゃんに教えてもらって部室で作ったんだよ! 木更津くん、食べてみて!」
「……えっ……、ごめん、俺、最近ちょっとイワシは……」
 いつも何でも食べる木更津くんに、断られてしまった。
「ははは、今年の夏はちょっとみんな、イワシにはトラウマがあってね……。俺もちょっと……」
 サエさんの笑顔も曇りがち。
「なに、そうなの? 去年は、いっちゃんが家から持って来たイワシの酢じめをみんな美味しい美味しいって食べてたのに……」
「まあ、そのうち心の傷も癒えるだろうから、その時にね」
 そっか、じゃあイワシは部室の冷蔵庫にでも入れておくことにする。
「イワシを絶対に食べないとは、言わんし」
 いつも通りビミョウなダジャレを言う2年生の天根くんは、これまたいつもどおりバネさんにドカッと蹴りを入れられていた。
 仲いいよねー。天根くんのどんなダジャレでも、バネさん、ちゃんと拾ってくれるんだもん。
「ハイハイハイ、皆さん、オジイから冷たい飲み物の差し入れだよー!」
 大きなペットボトルをいくつも持って来てくれたのは、1年の葵くんだ。
 1年で部長の子。
 私は自分が3年生で部長になった時、なんとなく、「テニス部はサエさんが部長だろうし、一緒に委員会とか出られるかなー」なんて思ったりしたっけ。
 まあ、テニス部の部長っていつもオジイが適当に決めてるみたいだから、みんなそんなにこだわってるわけじゃないだろうし、サエも別に気にしてるわけでもなさそうだった。けど、どうしてだか、私はちょっと淋しいし悔しい気持ちになったことを覚えてる。
「はいっ、部長もどうぞ!」
 元気一杯の葵くんは、私のコップに冷たいウーロン茶を注いでくれた。
「あ、ありがと!」
 もちろん葵くんは、すっごいいい子で面白くて、大好きだけどね。
 潮干狩部の女子からもよくいじられてて、可愛いの。
「みなさん、テニス部部長の葵剣太郎からひとこと、いいでしょうか!」
 そして、彼は小柄なその身体をぴしぃっと伸ばして声を上げた。
「おー、なんだ、剣太郎、言ってみろ」
 バネさんが盛り上げる。
「我々テニス部、全国大会は惜しくも緒戦で敗退してしまいましたが、夏休みの終わりにこうやってみんな元気にバーベキューができてうれしいです! そして、毎年恒例の、バネさんとサエさんの誕生日会を、今年は9月30日に開催しようと思いますが、皆さんいかがでしょうか!」
 おー、いいぞいいぞー! と潮干狩部男子からも大きな声が上がった。
 そっか、今年はその日が日曜か。
 バネさんの誕生日は9月29日で、サエさんの誕生日は10月1日だからいつも合同のバーベキューをやるの。っていうか、いつも大概誰かの誕生日をダシにして、バーベキューをやってるんだけど、私たち。
 葵くん、力が入ってるな。
 葵くんがこの海辺で、サエさんたちの誕生日を祝ってあげられるの今年で最後だもんね。
 最後なのは、なにも葵くんにとってだけじゃなくて、私だってそうだけど……。
「そっか、9月30日か。ね、サエさん、何食べたい? 私、一生懸命採ってくる。何でも言って」
 私が言うと、彼はふふっとお日様みたいに笑う。
が採って来てくれるものは、いつも本当になんでも美味しいよ」
「じゃあ、秋の産卵前の一番おいしいアサリかな、やっぱり」
「楽しみだなあ」
 そういうわけで、夏休みは終るけど、私にはとても大事な楽しみがひとつできた。

※※※※※

 9月になると、なんだかクラスの子の雰囲気がかわる。
 大概の運動部の子は引退ムードで、高校受験の勉強のモードに切り替わる。
 私も、もちろん受験勉強に本腰を入れないといけない時期ではあるけど、潮干狩部は全国大会とか試合があるわけじゃないからさ、そんなにピシッとは切り替わらない。
 でも、テニス部は……。
 教室で、一つ前の列の斜め前に座ってるサエさんの背中を見た。

 六角のテニス部は強い。
 私たち潮干狩部は、当然東京で開催されたテニス部の全国大会も応援に行った。
 けど、緒戦の相手は沖縄の強いチームで、シングルスもダブルスも負けてしまい、最後に残ったサエさんの試合。その試合の最中に、オジイが相手チームの選手のボールに当ってしまった。テニス部の皆と一緒にオジイについて病院に行った私は、サエさんの最後の試合を最後まで観ることができなかった。
 最後の試合。
 そう、夏休み最後のバーベキューではみんなあんなふうに明るく過ごしていたけれど、六角は全国の緒戦で負けたんだ。
 みんな、あんなに練習してたのに。
 サエさんなんか、あんなに強いのに。
 そう、サエさんはテニス、強いの。
 普段の練習や練習試合もよく見てるから、わかる。
 けど、サエさんは何を考えながらテニスをしてるんだろう。
 
「みんなと楽しく、テニスをするのが一番だよ」

 普段から、彼はよくそう言う。
 それは確かにそうだけど。私だって、皆が楽しくテニスをやって、その後でわいわいバーベキューをするのが好き。
 だけど、テニスの試合をしている時のサエさんは、それだけじゃないような気がするんだ。
 それは、私が口を出すようなことじゃないって、わかってるけど。
 どうしてだろう。
 今年のサエさん・バネさんバースディバーベキューに向けて、妙に気持ちが落ち着かない。
 六角が、サエさんが負けてしまったこと、3年生最後の夏が終ったこと。
 アサリのシーズンも終る。
 当然のようにしょっちゅう一緒に遊んでいた、潮干狩部とテニス部のバーベキューの開催も減って来るだろう。
 私のバカな頭では、いろんなことが処理しきれない。
 サエさん。
 私がサエさんを好きっていう気持ちは、どこへやったらいいんだろう。
 いつまでも、こうやってみんなで楽しくワイワイやっていられたらいいのに。授業中だというのに、私はなんだか悲しくなって、うつむいてにじむ涙を拭った。

※※※※※

 9月30日のパーティー当日、開始は午後からだけど、テニス部も潮干狩部も朝から部室に集まっている。準備があるのと、まあ何かと集まってわいわいやってるのがみんな好きだから。
 9月最後の日曜は少し蒸し暑くて、空には厚めの積雲がひろがっている。
 空気は確かに秋なんだけど、夏を思い出させる匂いのする日だった。
 潮干狩部の後輩たちが汁物の準備なんかをしている中、私が干潮の時間を確認していると、バネさんがビーチバレー用のボールを手に私の傍で足を止めた。
「3年の夏も終わったし、俺たちのバーベキューもそろそろ終盤だなあ」
 私がこの前から考えていたこと、彼も気にかかっていたのか。
「そうだね、なんだか1年の時からあっという間だったね。去年の夏は、来年はこうしようああしようなんてワイワイ言ってたのに」
 全国大会優勝したら盛大にやろうよ、なんて言ってたねっていうことは、お互い胸に飲み込んだ。
、お前、サエに言っとかなくていいのかよ」
「え? 何を?」
「何って、告白とかさ」
「えー!!」
 虚をつかれた私は、手に持っていた炭入りのバケツを落っことしてしまった。
「でかい声出すなよ、びっくりした」
 バネさんはなんでもないように、それを拾い上げてくれる。
「な、な、何言ってるの」
「え? だって、お前がサエのこと好きなのって、みんな知ってるだろ」
「えー!!」
 再度私は絶叫。
「お前、まさか、気づかれてねーと思ってたの?」
 私はもう何も言えない。
「いや、別にいいんだぜ。はサエのこと好きなんだろうなーってのはいい感じだったから、そんなにこの世の終わりみたいな顔しなくてもいいんだって」
 バネさんはちょっと慌てたように私をフォローしてくれるけど、フォローにはなってないよね。
「え、え、そんなにバレてたわけ? 私……誰にもそんなの言ったことないけど……」
「いや、まあ、剣太郎が入部して来た時から、『ああ、先輩って、すっごいサエさんのこと好きなんすねー』って言ってたくらいだったよ」
 はーっとため息をつく。
「……いいの、みんなでわいわいやれて楽しかったし、それでいいの……」
「いやいや、まあそうなんだけどさ。……その、こうやって毎日あたりまえのように顔をあわせてイカや貝を焼いて食べてっていうのが、来年の今頃はもうできないっていうのがさ、俺は信じられないくらいなんだけど……でもそれは確実なんだよな。」
 バネさんは炭入りのバケツを持ったまま、ポンポンとボールを弄ぶ。
「……俺たちは高校が別々になっても、テニスさえやっていればいつかどこかで必ず会うよ。けど、潮干狩部とテニス部は、卒業しちまったら試合で対戦するってことも合同合宿ってこともないしさ……うー、すまん、うまいこと言えねーし、別にプレッシャーかけてるわけじゃねーけど……」
 バネさんはボールを浜に放ると、せっかくセットした髪をぐしゃぐしゃっとかき回して、ぎゅっと眼を閉じる。
 私は今度はため息じゃなくて大きな深呼吸をした。
「……うん、ありがとうバネさん」
「お、おう、なんか悪かったな。動揺させちまって。……サエってああ見えて、つかみどころがないっていうか、本音が分かりにくいだろ。でも、お前がいろいろ海で採れたもん持って来てみんなで焼いて食べたりする時、本当に嬉しそうだったんだよ。ま、あいつはいつも楽しそうににこにこしてっけどさ。あいつが本当の気持ちを、ぽろっと言えるような奴がいればいいんじゃねーかなって、俺はずっと思ってたんだ。全国大会のあいつの試合も、俺は本当は最後まで観て応援したかったのに、あんなことになっちまって……」
 バネさんは悔しそうに唇を噛んだ。
 そうだよね、夏休みの終わりのお疲れ様会ではみんな明るくしてたけど、負けて悔しくないはずがないよね、みんな口にしなかっただけで。
 そして、サエさんの最後の試合の最後の彼。それは、うちの学校では誰も見ていないんだ。
 あの時、彼はどんな表情をしていたんだろう。どんなショットを打っていたんだろう。
 今となっては、わからない。
「……私、とりあえずアサリ採ってくる」
 炭のバケツはそのままバネさんにまかせて、部室からスコップとバケツを取り出した。
 私が今できることは、旬のぶりぶり太ったアサリを採ってきてサエさんに食べさせてあげることだ。
 まずは、できることからやらなくちゃ!
 
 自転車で駆け出した私は、隣町の浜辺に向かった。
 そこは隣の学校が許可を得てる海岸で、うちの部と提携しているのだ。
 そこの秋のアサリはうちの浜のものよりちょっと太ってて、沢山採れる。今はちょうど干潮に向けての時間帯だし、今採って海水で砂抜きすればパーティの頃にはちょうどいい。本当は昨日のうちに採っておきたかったけれど、昨日まで天気が悪かったから。
 美味しいアサリをサエさんに食べさせてあげたい。
 汁物に入れてもいいし、大きいのはそのまま焼いても美味しい。ホイルで包んで蒸し焼きにしてもいい。
 夢中になってバケツをアサリでいっぱいにした頃、砂浜に落ちる太陽の光が少しおかしいことに気づいた。
 はっと顔を上げた時には、海の方から黒い雲。
 遅かった。
 私としたことが。
 海にいる時には、雲の発達には十分注意するようにっていつも後輩に言ってたのに! 今日は昼前後に雷雲の通過の可能性があるから、バーベキューは午後落ち着いてからっていうことにしていたのに!
 夏が過ぎたからって、油断していた。
 バケツを自転車のカゴにのせていると、雷の音がした。同時に大粒の雨。
 だめだ。
 私は自転車ごと、閉店した海の家の屋根の下に避難。とりあえず周囲の木からは離れている。
 どこか、建物はないかな、と思いめぐらせるけれどここはアウェイだからさっぱり思いつかない。
 なんとかこの辺りに雷が落ちることなく、通過してくれるといい。
 祈るようにしゃがみこんでいるけれど、雷の音は近くなるばかり。
 あと10分もすれば雷雲は上空にやってくるだろう。
 せめて、避難場所が思いつけば駆け込む時間はあるのに。
 調べてみようか、とサーフパンツのポケットから携帯を取り出そうとすると、ばしんと背中を叩かれた。
!」
 ずぶぬれになったサエさんが、真剣な表情で立っていた。
「行くぞ、早くしろ!」
 雨の音が激しくて、それ以上会話はできない。
 彼はそれだけを言って、乗って来た自転車を駆った。
 私もあわてて彼の後を追う。
 彼と走ってたどり着いたのは、県道の手前の古い公民館だ。
 裏口の戸を開けて調理室に入った。
「本当は勝手に入っちゃいけないだろうけどさ、来る途中でチェックしたらここが開いてたから、避難できると思って」
 私たちは調理室の椅子に腰掛けて、窓の外の豪雨を眺めた。
 時々、割れるような雷の音と光。
 雷雲は確実に近づいているけれど、部屋に入ってしまえば、一安心だ。
「……サエさん、どうして私があそこにいるってわかったの?」
を探してたら、バネが『はアサリ採りに行った』って言うからさ。秋のアサリはここの海岸のが美味いって、、前に言ってただろう」
「あ、そっか」
「雷雲が近いんじゃないかと思って、心配になって走って来た。珍しいな、はいつも天気のことちゃんと気にしながら海にいるのに」
「うん、今日食べるアサリ、美味しいの採りたいなって思って、ちょうど干潮の時間だったから、ついね。ごめんね、心配かけて」
 サエさん、私がやったり言ったりしてること、結構覚えてるんだなあ。
「……あ、サエさん、私を探してたって、何かあった? 買い出しとか、炭が足りないとか? 後輩に電話しとこうか?」
 私が言うと、彼はくすっと笑って首を横に振る。
「なんて言ったらいいんだろうな……」
 彼にしては珍しく、言葉を選ぶような感じで逡巡する。
「ああ、まずこれを言っておかないと。実はさ、バネとダビデはU-17の全国選抜に選ばれてるんだ」
「えっ?」
 あの二人が選抜に? すごい! え、でもサエさんは?
「だから、今日のパーティーではその事も祝ってやってくれないか。俺が、みんなの前で言うからさ」
「え? あ、うん、そうだね、すごいね」
 私は何て言ったらいいのかわからなくて。
「剣太郎も結構、気を使うからさ。今日のパーティやろうって話の時に、言い出さなかったと思うんだよ」
 そっか、テニス部のみんなも、サエさんが選ばれなかったこと気にしてるんだ。
「……サエさんだってすごく強いのに……」
 私はぽろっと言ってしまった。
言ってしまってから、はっと隣の彼を見る。
 いつもテニス部のみんなの中でいる時の、あの柔らかな表情とは違って、まっすぐな強い眼をしていた。
「大丈夫だよ、
 彼はまっすぐに私を見ながら、強い眼で言った。
「俺は、自分がU-17の代表に選ばれなかったことが悔しいよ。だけれど、俺は負けたと思っていない。大丈夫だ、
 バリバリバリと音がして、近くに雷が落ちた。
 雷雲はおそらく上空にまで来てる。
 それでも、サエさんはすっと落ち着いていて、そんな彼を見ていると私は不思議と雷がちっともこわくなかった。
 だってサエさんが、大丈夫って、今言った。
「全国大会で比嘉中の甲斐くんとの試合。最後、俺ひとりになっただろう? みんなオジイについて病院に行っていたから」
「うん」
「俺、あの時に決心したんだ」
「え?」
「比嘉中の選手たちは縮地法を使う手ごわい相手だったけど、オジイが大切なヒントをくれて、そして俺は心の底から甲斐くんに勝ちたいと思った。結果的には負けてしまったんだけど、その時、俺は新しい自分に会ったよ」
「新しいサエ?」
 きょとんとして聞き返すと、彼は穏やかな笑顔に戻って続けた。
 雷の音に彼の声がかき消されないよう、私は顔を彼に近づけた。
「俺、試合が終って、青学の不二から『早くオジイの所へ』って言われるまで、一瞬オジイのことを忘れてたんだ。その時、俺ってなんて冷たい奴なんだって思ってあわててオジイのところへ行って、ごめんよ俺試合している時オジイのことを忘れてたよ、と言ったら、オジイが頭を撫でてくれたんだよ」
 サエさんは照れくさそうに眼を閉じる。
「『それで、いいのぉぉ』ってさ。それだったら、俺はもっともっと強くなれるとオジイが言ってくれた」
 眼を開いたサエさんは深呼吸をした。
「俺は1年の時から、テニス部ではずっとチームのことを考えていて、試合をしていても、何が何でも自分が勝ちたいとか、試合中に部のみんなの事を忘れるなんて、今までなかったんだ。目の前の相手をただただ倒したいという気持ちになったのが、全国大会のあの試合、初めてだった」
 そう言って、私をじっと見た。
「自分でも感じるよ。俺は、きっとこれからもっと強くなるだろう。俺は、勝つって決心したんだ」
 静かで穏やかだけれど、強い真剣な眼。
「……U-17の選抜に選ばれなかったことは悔しいよ。でも、大丈夫。俺は、バネやダビデに負けているとは思ってない。これからの俺は、もっと強くなるっていうのがわかったから、大丈夫なんだ」
雷の音、雨の音、海の荒れる音が遠くに聞こえる。
そうだ、わかった。
サエさんは海みたい。
普段は穏やかにみんなを包んで、触れると海水のようになじむ。
そして、大きな波を起こす力を持ってる。
でも、水平線の向こうはいつだって穏やかでまっすぐね。
そうか、あの全国大会での試合。
一人になったサエさんは、一人でそんな決心をしてたんだ。
「うん、サエさんの勝つ試合を見るの、楽しみにしてる」
そう言って、あと今日、ちゃんとバネさんと天根くんのU-17おめでとうも盛り上げていくからね、と付け加えた。
 サエさんは、はっとあらためて私を見た。
「あ、今日、を探してたのは、バネとダビデのU-17のことでっていうわけじゃないんだ」
「え? なに、まだ何かあったの?」
 驚いて私が言うと、彼は少し困った顔。
「1年の時からさ、こうやっての潮干狩部とテニス部で、すっごく楽しく毎日を過ごして来てさ。バーベキューなんかしょっちゅうで、それが当たり前だった。テニス部のみんなのことも俺は大好きだし、夢のような毎日だったよ。来年の夏には、もうこうやってみんなとは一緒にはいないんだっていうことが、とても信じられない」
 バネさんもそうだけど、やっぱりみんな思うんだな。私も、思ってるよ。
 胸の奥がきゅーっとなった。
「だけど、夢には続きがあったっていいだろう。来年の夏も、一緒に過ごそう」
「え?」
 さらりと言う彼の言葉に、思わず聞き返してしまう。
 いつのまにか雷雲は遠くに行ったようで、雨脚もおさまった。
 サエさんの声はしっかり聞こえる。
「俺のテニスもとの夏も、まだこれからだ。終わったりしない。俺はが好きだよ」
 調理室の丸椅子に座った私たちの間には、30センチくらいの距離があって、その距離に橋が架かった。
 私の手を、サエさんがぎゅっと握る。
 雨で湿って冷たくなった私たちの手の温度が、少しずつ上がっていく。
「俺はまだまだ、と一緒にいたい」
 雨はすっかり上がって、外は明るくなってきた。
 私はなんて言ったらいいのか、わからない。
「……私もだよ!」
怒ったように言って、サエさんの手をぎゅっと握り返す。
 、泣かないで、と優しい声が響く。
 でも、泣かないでなんかいられない。
だって、サエさんが優勝して、バーベキューでお祝いするっていう、私の夢が急に色づいたんだもの。
 そして、それはきっと夢ではない。
 夢はこれからも続くけれど、でもそれは夢じゃないんだよ。

(了)

2012.10.1
佐伯くんお誕生日企画「キミがいたから」へ寄稿

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