朝練の後、部室でデータ整理をしていた柳蓮二は急ぎ足で廊下を歩いていた。
すると、背後から彼を追い抜いてゆく人影。
「蓮二、急がないと授業が始まるぞ」
大股で歩く真田弦一郎だった。
彼は既に部室を出ていたはずなのに、と不思議に思っていると、その右手にあるものが目に付いた。
「弦一郎、それは……何だ?」
「うむ? これか?」
弦一郎は右手に持った物……ピンク色のふわふわした物体を持ち上げた。
「これは、アフロだ。悪いが急いでいるので、先にゆく」
それだけ言うと、急ぎ足で教室へ向かった。
アフロ? なぜ、弦一郎が?
蓮二は彼の言動がいまひとつ理解できぬまま、その後姿を見送る。
放課後、蓮二が部室へゆくと中がやけに騒がしかった。
切原赤也やジャッカル、丸井ブン太らが騒々しくしゃべっている。
「何をやっている、早く練習に行かないと、もうすぐ真田もやってきてどやされるぞ」
静かに言うと、彼らは一斉に蓮二の方へ詰め寄る。
「参謀、いいところに! 妙な噂を聞いたんですよ!」
珍しく赤也が真剣な顔で言ってきた。
そして三人は口々に、それまで話し合っていた事を蓮二に訴えかけ始める。
その時、部室の扉が開き、真田弦一郎が入ってきた。
部室はしんとなった。
弦一郎は彼らに一瞥をくれると、自分のロッカーへ行き着替えを始める。
「……お前達、どうした? さっさと練習を始めんか、何をやっとる?」
ジャージを着て、トレードマークのキャップを被ると、鋭い眼光で部員たちを睨み付けた。いつもならそれで皆あわててグラウンドへと走るのだが、この日は皆、動きが悪かった。弦一郎はラケットを持つと、またぎりりと皆を睨む。
「どうしたんだ、何をじっとしている? 何か言いたい事でもあるのか?」
苛立って怒鳴る彼に、蓮二が静かに歩み寄った。
「いや、その、弦一郎。皆が、面妖な風聞を耳にしたというんだ」
「ほう、どういったものだ?」
弦一郎が眉をぴくりと動かして蓮二を見ると、蓮二は軽く深呼吸をして続けた。
「その、何だ……今朝、お前が、ピンクのアフロのヅラを被ってグラウンドを走りまわっていたらしい、と一部で風説されているそうなんだが……。朝、確かにお前はその……アレを手に持ってはいたが……まさか、そんな事はないな?」
蓮二の言葉に、弦一郎はフンと鼻を鳴らした。
「俺がそんな事をする男に見えるか? 馬鹿馬鹿しい」
弦一郎の返答に、部室の全員が胸をなでおろした。
「そうですよね、副部長がまさかアフロだなんて……、ありえないッスよね。副部長が校庭でピンクのアフロのヅラを振り回して『とったどー!』と叫んでいたとかね、皆好き勝手な事言っちゃって、参りますよ」
赤也がほっとしたような笑顔で言うと、弦一郎は彼をぎろりと見る。
「当たり前だ。俺は振り回してなどいない。ただ、こうやって……」
弦一郎は右手を軽く上げた。
「校庭でアフロを二〜三度軽く振っただけだ。当然、『とったどー』などと叫んではいない。下らん話に振り回されている暇があったら、さっさと練習しろ」
弦一郎はこわばった笑顔の赤也の前を通り過ぎると、部室を出て行った。
「弦一郎! お前、アフロを、アフロを、校庭で手に持って振ったのか!? まさかその時、腰に手を当てていたりなどしていないだろうな!?」
あわてて蓮二は問いかけながら、後を追う。
立海大付属のテニス部のデータを統括している柳蓮二はこの翌日、エース真田弦一郎がピンクのアフロの女を自転車の後ろに乗せて猛スピードで走っていたという新たな風説と、弦一郎のトレーニングノートの、
『通常メニューに加え、登下校の行程を自転車走行+46.5kg(アフロ)』
という几帳面な字で書かれたメモに悩まされる事になる。
でも、彼はまだそれを知らない。
了
2007.3.29