恋のAED



 片想いっていうのは、永遠に続く甘い風邪だと思っていた。
 それは、テストで赤点を取っても、雨が降っても、例え戦争が起こっても終わらない私の宝物だって。
 毎日毎日私の胸を満たす、この甘い楽しみは終わらないんだと思っていた。
 それが、

『片想い相手に恋人ができる』

 という、言われてみれば当たり前の事でこうもあっさり終わってしまうなんて。

 頭の上から核爆弾が落ちてこなくても、この世の終わりは来るものなんだなあと、私は同じクラスの図書委員の香田くんと、その出来たての彼女の樋口さんを眺めながら考えていた。
 二人を見る度、私の中では何度も何度も世界が終わってゆくのだ。
 だったら、なんでちゃんと香田くんに告白しなかったのかっていうのが尤もなご意見だとは思うけれど、片想いの状態から告白なんて、私にとっては地球から銀河系の果てまでの距離よりも遥かな距離のある事。
 永遠の片想いなんてのは、さすがに言いすぎだけど、もうちょっと……もうちょっと片想いでいてから考えようと思っていたのだ。だって、私、彼とはなかなか話す機会もなかったし。
 香田くんは私をどう思ってる? ちょっとは脈はあるの? どうしたら彼の気持ちがわかる?
 なんて、うつうつと思いながらね。
 見なきゃいいのに、怖いもの見たさで何度も何度も香田くんたちを見ては『ハーッ』ってため息をついて、私の一日は過ぎてゆくのだった。

「おい、

 そんな私の耳に入ってきたのは、うっかりすると聞き逃してしまいそうな穏やかな低い声。ふと顔を上げると、その声の主はテニス部の乾だった。
 ああ、乾。
 と、私は声に出すのも面倒くさくて彼を見上げるだけ。
「何度も声かけてたんだぞ。寝てたのか?」
 聞き逃してしまいそうなっていうか、私は実際彼の呼びかけを何度も聞き逃していたらしい。まあ、この世の終わりなんだからそういう事もあるよね。
「……ああ、ごめんごめん」
 少し心配そうに言う乾に、私は抑揚のない返事をした。
「今日の放課後、体育館でいいんだよな?」
 彼の確認の言葉に私は、うん?と首をかしげる。
「んん? なに?」
 相変わらずの私のぼーっとした態度に、さすがに乾は眉をひそめた。
「お前、今日はおかしいぞ? AEDの講習、今日だって言ったのだろ?」
 言われてみてようやく私ははっと気付く。
 そうだ、今日はAEDの講習があるんだった。

 AEDっていうのは、ほら自動体外式除細動器っていうんだっけ。映画やドラマでよくあるでしょう、心臓止まった人にドカンッってやる電気ショックの機械。あの機械で、素人でも使えるっていうやつ。あれが、ウチの学校にも設置されるようになったのだ。
 で、今日は業者の人が主に先生を対象に講習をしてくれるのだけど、興味のある生徒も参加してかまわないという事で保健委員である私が告知をしたら、さっそく乾が出る気マンマンの意思表明をしたというわけだった。
 そう、そうだったんだなー。
 思い出しつつも、私はまだなんだか他人事みたいにぼーっとしたまま。
 面白そうだから私も行こうと思っていたのだけど、そんな事を考えていた先週がなんだか遠い昔の事みたい。あの頃は私はまだ幸せな片想いの最中だったんだもの。

。お前、具合でも悪いのか?」

 心配そうな態度から徐々に呆れ顔になり、一巡してまた心配そうな乾。

「ううん、別にそういうわけじゃないよ。うん、講習、私も行くしさ。一緒に行こうか」
「そうだな。じゃあ、授業が終わったらまた声かけるよ。今日はお前、ぼーっとしてるからな」

 乾はちょいと眼鏡のブリッジを持ち上げると軽く笑って自分の席に戻った。
 いいな、乾は。
 部活に熱中していて、恋の悩みなんか無縁そう。
 彼のテニスへの情熱から広がる様々な興味は果てしなくて、関連分野の本を読み漁るために図書委員の香田くんにもよく声をかけているし、そしてトレーニング中の有事の際に備えてという事で保健委員の私とも何かと話す事が多いのだ。それで先週、ふとAEDの講習の話になったんだっけ。乾によると、小中学校でもボールが胸部に当たったりする衝撃で心臓が止まりそうになる「心臓震盪」なるもののケースがあるんだって。それで、テニス部の彼は是非AEDの講習に出ておきたいのだと息巻いていたというわけ。
 そういう、まっすぐで勉強家な男の子なのだ。彼は。
 そりゃー、私みたいに部活もまじめにやらず、うだうだと片想いをしてるようなのとは違うよなあ。
 自分の席に戻ってさっそくノートを広げて何かを書き込んでいる乾をちらりと見て、私はまた机にだらしなくつっぷした。
 そしてついつい香田くんとその彼女が相変わらず楽しそうに話しているのを視界に入れると、どうしようもないため息が出て、私の中で今日何度目かの世界の終末がやってくる。

*************

 授業が終わると、宣言どおり乾はさっそく私の机の前にやってきた。
「行くぞ、
「わかってるって、そんなにせっつかなくてもいいじゃん」
 私はあわてて教科書や筆記具を鞄に仕舞い、支度をした。
 先に教室を出て行く乾をいそいで追いかけるけれど、同級生の中では格段に高い身長・長い脚の割りに歩く速度はそんなに速くなくて、私は難なく一緒に歩く事ができる。
 多分、歩くスピードを合わせてくれてるんだろうなあ。
 乾は変わってるけど、ソツのない男の子だもの。
「そうだ、この前保健室でお前にもらったあのドレッシング材」
「うん?」
「ほら、ひどい擦り傷が出来たときに貼る透明のシートだよ。あれ、すごくよかった。重宝してるよ、ありがとう」
「ほんと? よかった。あれね、結構高いやつなんだって、先生が言ってた。だから、余計にあげたの内緒にしといてね」
「わかってる」
 乾はにっと笑った。
 彼はいつも分厚い眼鏡をかけていて決してその奥の目を見せないんだけど、不思議とよそよそしい感じがしない。クラスメイトの誰とでもとても親しげに話すその穏やかな態度のせいもあるだろうけど、乾と話しているのは程よい温度のお風呂に入っているような何気ない安心感がある。
 私自身が機嫌の悪い時にテキトーにあしらっても、テンションの高い時にいろいろ話しかけても、いつも同じように穏やかにいてくれる彼は、実際まったく大人なクラスメイトだなあと思う。
 いいよね乾は、大人でしっかりしてて。
 下らない事で悩んだりしないんだろうなあ。

 講習会の場所に指定された体育館に入ると、既に先生方が大勢集まっていた。
 ブルーシートを広げた上にモデルの人形が横たえられ(これがなんだか、怖いんだ!)、赤いパッケージの機械が横に置かれて(それが多分AED)、説明用のホワイトボードが設置されている。
 保健の先生が、講習をしてくれる業者らしきスーツの人となにやら話していた。
 私と乾が会場に入って行くと先生と目が合う。先生は私たちに手招きをしてくれた。
「はい、資料のパンフレット」
 カラーのキレイなパンフレットを私たちに一部ずつ手渡す。
「やっぱり乾くん、来たのねぇ」
 そして、私の隣に立つ乾をおかしそうに眺めるのだった。
「ええ、運動部の最上級生としては、やはりきちんと講習を受けておきたいですから」
「乾くんはこういうの、半分趣味じゃないの?」
 保健の先生がからかうように言うと、乾は何も言わずちょっと照れくさそうに笑うのだった。
「乾って、本当に好きだよね」
 保健の先生が、そろそろ始まる講習のために、解説用の図をホワイトボードに貼り付けに行く後姿を眺めながら、私は乾を見上げて言った。
「何が?」
「何かこう、勉強するのとかが」
「だって、テニスをしてゆくのに必要な事だからね、全部」
「確かにそうだけど、そこまでするの、乾くらいのもんじゃん」
「まあ、何をつきつめてゆくにも、人それぞれのやり方があるんだよ。これが、俺のやり方」
 パンフレットを広げながら落ち着いた口調で言う彼を、私はじっと見上げた。
 乾はパンフレットの内容に集中しているのがわかるから、遠慮なくじろじろと見つめる。
 俺のやり方、か。
 いいな、乾は。
 自分のスタイルがちゃんとあってさ。そして、何でもちゃんとわかっててさっくり答を出して。
 私、香田くんに片想いをしてる間、その甘い渦でぐるぐる回っているのに夢中で、自分には何にもないんだって全然気付いてなかったんだよ。
 私は何をしてたんだろうなあ、今まで。
 片想いすらなくなった私は、ほんと何にもないよ。
 パンフレットに目を落としても、なんだか私は集中できないまま。
 頭に入らない内容をぼーっと眺めていたら、保健の先生の司会で講習が始まった。

 AEDは、2004年から、医療従事者でない一般市民でも使用できるようになった機械で〜……と始まった講義の話はなかなかに面白くて、私は先生方に混じって結構真面目に聞いていた。
 なんかすごいよね。
 あんな、テレビでしか見たことのないビビビッて電気ショックが私なんかでもできちゃうなんて。本当に大丈夫なのかな。
なんて思っていたところで、実際の機械の登場だった。
 お話どおり、確かに『私でもできそう!』って感じのもので感心する。
 だって、フタを開けたら自動的に機械があれしなさいこれしなさいって、手取り足取りしゃべってくれるんだもんね。そんで、一個だけあるスイッチを押すだけ。
 すごいすごい。
 これで倒れた人に電極を貼ってスイッチを押すと、機械が電気ショックを与えて良い状態なのかどうかを判断して、必要だったらドカンと電気ショック、というわけらしい。
 私は終始感心して、へええ!とか、すごいなー!とかつぶやきっぱなしだった。
 乾は熱心にメモを取ったり、質問をしたり。
 そういえば、消防署に救急救命の講習を受けに行った事もあるって言ってたっけ。

 そんな感じで、一通りの講習が終わった後は現物を近くで見せてもらったりして、そして場はお開きになった。
 片付いたら、体育館では部活が始まる。
 私たちは先生方に挨拶をして体育館を後にした。

「なんか、すごいねえ。AEDって。本当に全部機械で判断してやってくれちゃうんだ」
「うん、そうだな。アメリカで試験的に導入した際、まずはガードマン達が使用したらしいがぐっと救命率が上がったらしいぞ」
「へええ」
 乾はほんと何でも知ってるねえ、と思いながら私は、『電極を貼ってクダサイ』なんて丁寧にしゃべるあの機械を思い出していた。
 機械が『電気ショック必要!』と判断する心室細動ってのは、心臓がぐしゃぐしゃとけいれんしたみたいにテキトーに動いて、その心臓の中で血液がうつうつとしてちゃんと全身にいきわたらないような、そんな状態なのだとさっきの講義で言っていた。
 それって、まるで今の私みたい。うだうだうつうつとしててさ。
 私にもドカンと一発電気が通って、そしてシャキンとしたらいいのになあ。
 それか、あれだ!
 片想い用のAEDがあればよかったんだよね。
 私が片想いしてる最中、香田くんに電極を貼ってさ、香田くんが私をどう思ってるのかとか全部判断してくれちゃうの。そんで、いけそうだったら電気ショックをドカンとさ……。
 なんて、バカみたいな事を考えてたら、乾の足がふと止まった。
「……ん? どうしたの?」
 私も足を止めて、乾を振り返った。
 彼は背が高いから、お互い立って顔を見るには私はうんと上を向かなければならない。
、今日は本当にぼーっとしてるな。……何か、あったのか?」
 そう言う彼の様子は、珍しくちょっと迷うような感じだった。
 いつも言葉につまったりする事などない彼なのに。
「別に。私、いつもちょっとぼーっとしてるじゃん」
「……まあ、そうなんだが、その……」
 おいおい、そこは『そんな事ないよ』とか言うとこなんじゃないの。まあ、乾らしいけどね。
 けど、その後の沈黙が乾らしくなかった。
 穏やかでゆっくりだけど、いつも流れるようにしゃべる乾なのに。
「何か、がっくりくるような事があったんじゃないか?」
 その後続いた言葉は、いつものように穏やかなのだけれど、どこかしら奥歯に物のはさまったような感じ。私、乾にこんな顔させちゃうくらいに、ひどいほんやり具合だったのかなあ。
「うーん……」
 私はうつむいて小さくつぶやく。
「まあ、がっくりくる事があったかなかったかって言ったら、あった、かなー……」
 これまた私もはっきりしないレスポンス。
 だって、何て言ったらいいのやら。いきなり乾に、失恋しましたなんて言えないよ。
「……そうか。……その、大丈夫か?」
 乾の調子は更に煮え切らなくなる。あー、いつもあんなに落ち着いてる乾をこんな風にさせちゃうなんて、申し訳ないな。そう思いつつも、なかなか私もシャッキリできない。
「まあ、大丈夫っていうか、うん、そのうち、大丈夫になると思う」
 じゃあ、私はもう帰るけど、乾は部活、頑張ってねって言って別れようと思うけれど、乾はいつまでたっても歩き出さないし、私もどうしてかじっと彼の前に立ったまま。
 なんだかヘンな感じ。
 乾といて乾と話すのは、いつも呼吸をするみたいに日常的でなんでもない事なのに、いつもと違ってちょっと乾が黙り込むだけで、こんな風になるんだ。
 こんな風っていうのは、なんだろう、つまりちょっと緊張するっていう事。
 乾が黙っていれば黙っている程、乾が知らない男の子になってゆくみたい。
 乾は、今日の講習のパンフレットを手でもてあそびながらふうっと息をついた。
「うーん、すまない、こういう言い方、フェアじゃなかったな」
 そして続く彼の言葉の意味がわからなくて、私は目を丸くして彼を見上げる。
 乾はパンフレットを鞄にしまうと、右手で軽く髪をかきまわした。
 ちなみにぐしゃぐしゃとかきまわしても、乾のツンツンした頭はまたちゃんと元通りに戻る。

「香田と樋口が最近つきあうようになって、それでお前、落ち込んでいるんだろう?」

 どうやって身構えて良いのかさっぱりわかっていなかった私に、乾のその言葉はザクリと来た。なんで私がそれで落ち込んでるって知ってるの、とか、とっさの事に私は何も言葉を発せない。
「……俺は香田とはよく話すだろう? 具体的に聞いたわけじゃないけど、あいつが樋口とつきあうっていうのは少し前から知っていたし、その……が多分、香田を好きなんだろうなっていうのもなんとなくわかっていたから……」
 私の返事を待たずに、乾は何だか言いにくそうに続けた。そんなに言いにくそうにするなら、言わなきゃいいのに。私だってどう答えたらいいか、わかんないよ。
 なんて言ったらいいかわからないし、乾はそれで黙ってしまうし、私たちの居心地の悪い時間はしばし続いた。
「私のそういうの……乾にすぐわかっちゃうくらいに、すごくわかりやすかった?」
 制服の生徒が部室棟で着替えて部活に向かうくらいの時間がたってから、私はぼそっと尋ねた。私と乾の会話で、こんなに一つ一つに時間をかけるのは初めてかもしれない。乾と話すのにこんなに緊張するなんて。
「……誰にでも簡単にわかるって程じゃあなかった」
 乾の返事に私は少しほっとする。だって、私の片想いがクラス中にバレバレだったりしたら恥ずかしくてたまらないじゃないの。あ、でも……。
「でも、だったらどうして乾はわかったのよ。私、誰にも話してなかったのに」
 今度は乾がしばらく黙って、そして言った。
を、見てたらわかるからな」
 見てたらわかるって、それは簡単にわかるって事じゃないの。
 そんな私のツッコミに答えるように、乾は今度はすぐに続けた。
「気を悪くしないで欲しいんだが、俺はつまり、普通のクラスメイト以上によくを見ていたっていう事なんだ」
「ええ?」
 私は思わず声を上げてしまう。
 乾は決まり悪そうに眉をひそめてため息をつき、そしてぐっと私をにらみつけるようにした。
「わかってる、わかってるんだ。でも、今日の講習でも言っていただろう? 心室細動が起こったら、できるかぎり早く手を打たなければならないって」
 これまた乾ならではの、わけのわからないセリフ。
の好きな男に恋人ができたばかりなんていうタイミングが、多分良くはないのはわかっている。しかし、のその落ち込みっぷりはどうにも放っておけないし、俺だってやはり、その……あせってしまうんだ」
 乾は力強くしゃべり続ける。そして落ち着かなさげに、眼鏡をいじりながら私をじっと見た。

「ああ、つまり、俺が……を好き、という事だ」

 乾が眼鏡をいじるたびに上げたり下げたりする右手が、私の手に一瞬触れた。
 彼はあわてて大袈裟なくらいにその手を引っ込める。
 一瞬触れたその手は確かに温かくて、私の手の甲にずっと感触を残す。
 私は近眼じゃないけれど、多分目の悪い人が裸眼に眼鏡をかけたらこんな感じに違いない。
 今までぼんやりとしか見えていなかったものが、いきなりくっきりと輪郭を明確に、そして色も鮮やかに目に入ってくる。
 乾貞治って男の子は、落ち着いていて何でも知っていて、迷ったりする事がなくて、大人で、物事の答えをいつでもはっきりさせていて、そんな子だと思っていた。
 けれど、今、私の目の前で私をびっくりさせるような一言を言った彼は、迷いながら照れくさそうに、深刻そうな居心地の悪そうな顔をしている。
 こんな乾を、私は知らなかった。

 ドクン

 突然私の心臓が大きく動き出すのがわかる。

 乾め、突然勝手に私にAEDを使うなんて。

 電気ショックをくらった私は、不必要なくらいにドクドクと心臓が動くし、そしてまともに乾の顔が見られないし、今までずっと教室ではベラベラとしゃべっていたはずの乾に何て言ったら良いのかさっぱりわからない。
 ああ、でも何か言わないと、何かしないと、目の前の乾は心臓が止まってしまいそうな顔をしている。
 そんな彼をもうしばらく見ているのも悪くないかもしれないなあ、とも思う。
 でも、本当に乾の心臓が止まってしまったら困るから、私は所在なさげにしているさっきの乾の右手にそっと指を触れた。

「……蘇生成功だ」

 すると乾は大きなため息とともにそうつぶやいて、私のその指先をぎゅっと握るのだった。
 先に蘇生させられちゃったのは、私の方ですよ、乾貞治くん。


(了)
「恋のAED」
2007.10.14




-Powered by HTML DWARF-