●● 僕とあなたのセブンデイズ(日曜日) ●●
「さん……どうですか?」
「鳳くん……ダメよ、まだ……」
「俺がもっと、こうしたら……」
「あっ……」
さんは声を上げて飛び上がった。
「見えた、見えた! あー、でも寝てる……」
かがんだ僕の肩に手を置いて伸び上がったさんは、落胆の声をもらした。
晴れた日曜、僕たちは動物園に来ていた。
そして、まずは何より、パンダを見る列に並んだというわけだ。
少しずつしか動かない列にジリジリしていた僕らは、ようやくパンダが見えるところまでたどり着いたのだけど、食事を終えたらしいヤツは、お腹を上にむけてぐっすりと寝ているところだった。
それでも、くずれた大福みたいなその生き物はとても可愛らしくて、僕は夢中で見入ってしまう。さんも同じく、嬉しそうな顔でじっと眠っているパンダを見つめていた。
僕はさんがこんな風にはしゃぐ事が意外で、実はパンダを見るよりも珍しくて嬉しかった。
「他をまわってからまた来たら、今度は起きてるかもしれませんよ」
「うん、そうね」
僕が言うと、さんは納得したように笑う。
僕らはパンダ舎を離れて、ゆっくりと他の生き物のところへ歩いていった。
今日、僕は打ち合わせの場所にここを指定してさんと待ち合わせた。
何の打ち合わせかって?
そりゃあ、僕とさんの件。
そういう建前だ。
でも、本当は何だっていい。
とにかく残された一日を、僕は大切に使いたかった。
僕たちは、ゾウやペンギンやシロクマを見て歩く。
僕は当然、好きな女の人と動物園に来るなんて初めてで、朝からとても緊張していた。
けれど、愛らしい動きをする動物達を見ている僕らには笑いが尽きなくて、一般的に動物園がデートの場所に選ばれる事の多い理由が、よくわかった。
でも、今日は一日そうやって楽しく過ごして終われば良いわけじゃないという事も、僕にはよくわかっている。
ひとしきり歩き回って少々疲れた頃、僕らはヤギやウサギなんかのいる広場のベンチで休憩をした。
「……動物園なんて、久しぶりだったかも」
さんは満足そうに言って、ペットボトルのお茶を一口飲む。
「スミソニアンのサイトのパンダを見てたら、どうしても本物が見たくなってしまったんですよ」
「あ、あれ、見た?」
「はい。可愛くて、つい夜更かししてしまいましたよ。スミソニアンのパンダを見てからだと、ここのパンダは一人ぼっちだから、ちょっとかわいそうかなって思うけど、やっぱり可愛いです」
「ねえ、可愛かったね。寝てたけど」
さんは本当に、学校では見たことのないキラキラとした笑顔を僕に見せてくれる。
太陽の下のそのまぶしい表情は僕の胸を一杯にした。
明日も明後日もその次の日も……ずっとこの笑顔を見られたらいいのに。
僕は空を見上げて深呼吸をして、そしてまたさんを見つめた。
「……今日で、俺とさんがつきあっているっていう嘘はおしまいになりますね」
僕が静かに言うと、さんは柔らかな笑顔はそのままに、すうっといつも学校で会う時の表情に戻った。
「そうね、どうもありがとう。もう十分ね、とても助かったわ」
「この嘘を終わらせるにあたって、ひとつゲームをしませんか?」
僕が言うと、さんは不思議そうに僕を見上げる。
「ゲーム?」
「僕とさんとかわりばんこに、ひとつずつ『本当の事』を言うんですよ。例えば、こんな感じで……僕はずっと前から、さんはとてもキレイな人だなあって思ってましたよ」
僕が笑って言うと、さんはしばらく黙ってから、くすっと笑ってそして僕を見た。
「ええと、私の番? 私は、そうね、鳳くんは二年生なのにすごく背が高くて、かっこいい男の子だなあって思ってた」
普段のさんならとても言いそうにないそんな言葉に、僕も笑ってしまう。
僕らの幸せなゲームは、しばらく続いた。
さんは、僕が弁当を食べるのが遅いと言い、僕はさんは一度にたくさん物を口に入れすぎると言い、それまで動物たちを見てまわった時よりも僕らはおかしくて笑ってしまう。
「……あの、鳳くん、私本当はね」
さんは穏やかな笑顔のまま、ふうっと大きく呼吸をして言った。
「月曜に、鳳くんが私をサロンから連れ出してくれた時。本当はあの時すぐに、ありがとうって言いたかった。でも私、すぐにはなかなか言えなくて……。あの時本当は、とても感謝していたの。ありがとう」
僕はさんの穏やかでまっすぐな目を、じっと見た。
広場にいる大勢の家族連れやカップル達の楽しげな姿も声も、瞬時に僕からシャットアウトされ、もう僕にはさんの姿とその声しか入ってこない。
「さん……俺は本当は……」
胸元の十字架を、僕はぎゅっと握り締めた。
「俺は、本当はさんが思うような優しい男じゃないんです。月曜にサロンでさんから月島さんが去ってゆくのを見て、俺は『チャンスだ』と思いました。きっとこの機会を生かせば、俺はさんと親しくなれるんじゃないかって」
ゆっくりと続ける僕の言葉を、さんは目を大きく見開きながら聞いていた。
僕は自分の心臓の動きが少しずつ早くなってゆくのを感じる。
「私は……」
さんは僕から目をそらし、一度空を見上げてから自分の手元に視線を落とした。
「私は鳳くんが皆からどんな評価を受けている男の子か知ってたわ。だから……私が、鳳くんを利用したの。私のプライドを守るために」
彼女は搾り出すようにそう言って、両手を自分の膝でぎゅうっと握り締めていた。その手が白くなってゆくのが見える。
「俺はさんがプライドの高い人だって前から知ってます。だから、さんが俺を利用するにちがいないと、わかっていてあんな提案をしました」
僕が言うと、さんはうつむいた顔を上げて、じっと僕を見た。
黙ったまま。
「……さん、一回パスですか?」
何も言わないさんに僕は言って、今日何度目かの深呼吸をした。
「じゃあ、俺が続けます。俺はずっと前からさんが好きでした。この一週間、さんが俺を好きになれば良いのにとずっと思っていました。きっと月島さんより、俺の方がいい男です。俺の方がさんを大切にする。俺はさんに悲しい思いをさせたりなんかしない。……ずっとずっと、とても好きでした」
僕は、昨日忍足さんと向日さんのいるコートに打ち込んだサーブよりも、もっと力を込めてまっすぐに鋭く言葉を発した。
さんは両手を握り締めたまま、更に目を丸くして僕を見る。
その柔らかそうなピンク色の唇は、動かないまま。
僕のサーブは、さんに届いただろうか。
「……さんの番ですよ。またパスですか?」
僕は胸の中でドラム演奏が始まるのを自覚するけれど、努めて冷静に続けた。
「私は……」
さんは消え入りそうな小さな声を発する。
「……先週の今頃はまだ、月島くんとつきあってて……。月曜に鳳くんが私を助けてくれた時も……どうしてこんな風にしてくれるんだろうって、きちんと思いやる事もできなくて……」
彼女の唇は小さく震え、キラキラとパンダをみつめていたあの目はふっと伏せられたまま。
「さん、これ……」
僕はバッグの中から本を取り出した。
学校の図書館から借りたその文庫本を、さんは驚いた顔で見つめた。
「パウロ・コエーリョの『悪魔とプリン嬢』。三部作って言ってましたよね。読んでみてもなんだかちょっと難しくて、ハッピーエンドなんだかよくわからなかったけど、ひとつだけ分かった事があるんです。三部作のテーマの『一週間もあれば人生を変えるのには十分』って事。俺はこの一週間で、今まで憧れでしかなかったさんと、男と女として心から仲良くなりたいと、そう思うようになりました。例え失敗して、俺が傷ついたりみっともない事になったって、構わない。実は俺もプライドが高い方だから、そんな風に思った事、今までなかったんです……」
さんの膝の上の両手はふわりと解かれて、その両手にはゆっくりと血流が戻り、やさしい色へと変っていった。
「……月曜に鳳くんが私を助けてくれた時から、鳳くんは私を好きなのかもしれないと思ってた。一日一日過ぎるたび、心のどこかで、本当に鳳くんが私を好きなんだといい、私と鳳くんが本当につきあってるんだといいと、そんな風に思ってしまって……。でも、どうしてだか……そんな事を考えちゃいけないって思ってたの」
僕は十字架を握り締めていた手を、ゆっくりとほどく。
「昨日、部活が終わって帰る時、宍戸さんが俺に言ったんです。『俺が見たところ、どう考えてもは長太郎が好きに決まってるんだから、あんな申し訳なさそうな顔をさせてちゃダメだ』って。ズルいのは俺の方なんだから、どうかそんな顔をしないで、パンダを見てる時みたいに笑ってもらえませんか?」
僕が言うと、彼女は目を丸くしたまま、かあっと顔を赤くして立ち上がった。
そして僕に背を向けて歩き出す。
「……ゲームはおしまい。もう、本当の事なんて言わないわ」
さんはそれだけ言うと僕に背を向けたまま、少しずつ歩いて僕から離れてゆく。
けれど、それはちょうど家の猫みたいに、決して僕のところに戻って来れなくなるところまでは行かない。
だから彼女の背中は、ちっとも遠くなんかなかった。
僕は黙って彼女の背中に向かって歩み寄る。
歩くのをやめた彼女は、家の猫みたいに僕が近寄るのを感じながら、振り返る事はしないけれど、逃げたりもせず僕が傍に行くのをじっと待っていた。
さんの隣に立つと、僕はそっと彼女の指先に僕のそれを絡める。
猫がそっぽを向いたまま、なでてくれと耳を動かすように、彼女も赤い顔でうつむいたまま僕の指を握り締めた。
そう、さんの昔の恋も、僕との一週間も、ひとまずおしまい。
この一週間は、僕たちの世界を変えた。
明日から、僕と彼女の新しい一週間がずっと繰り返されるのだ。
(了)
「僕とあなたのセブンデイズ」
2007.6.5