恋愛小説家(5)



 は次元の隣に腰を下ろす。かすかにシトラスの香りがした。
 ゴールドのドレスからのぞく、豊かな胸の谷間に光る赤い石のついた金のネックレス、落ち着いた色調の金の髪、そしてうっすら焼けた肌。
ちょうど砂漠の夕暮れを連想させるような色合いだった。
 はマティーニのロックをオーダーする。
「……お酒は飲まれないのかと」
「ワインを飲まないだけよ。部屋に戻る前に少し飲みたくなったの」
 ロックグラスに入ったマティーニが運ばれると、彼女はカラカラとオリーブで氷をかき混ぜた後グラスを持ち上げて、つややかな唇にマティーニを含んだ。
実に美味そうに味わう。
「あなたは、業務終了なの?」
「いや、ちょっと息抜きをしているだけですよ」
 言いながら、ちらりちらりと彼女を観察した。
モデルや女優のような派手さはないが、整った顔立ちのキュートな美女で、そしてグラスを持つ指先や、肩にかかる髪を払うしぐさがなんとも艶っぽかった。
そう、開けっぴろげな笑顔に油断して見入っていると、昼間はほとんど隠れていたその中の、蠱惑的な香りがいつのまにか周囲を包み囲んでいるのだ。
 次元は気付け薬でも飲むように、バーボンを口にした。
 この女は、自分が男にどう映るのかすべてわかって、それをまったく思うままにコントロールするのだろう。ゴールドスミスが虜にされていった様が、容易に想像できる。
「あなたも取材でお忙しいのでは、女史」
「……でいいわ。今回はロケ地の下見が主だから、体の良い休暇みたいなものよ」
 言って、また笑った。唇を三日月のように広げて。
「……恋愛小説の取材というのは、どんな事をなさるのです?」
 次元は目をそらして言った。二杯目のブッカーズを注文する。
「恋愛小説だからといって特別な事はないわ。その土地の匂いや空の色、風景や建物がどんな風に見えるのか、その土地で過ごしたら、どんな気持ちになるのか。そういった事を自分で感じたり、その土地がどんな歴史でどんな事情なのか詳しい人に尋ねたり。私、大学の時はフィールドワークをやっていたから、そういうの結構まじめなのよ」
 新しいグラスを口につけながら、次元は意外そうに彼女を見た。
「そうですか、失礼ながら私は恋愛小説はあまり読みませんので、自身の体験を書かれたようなものなのかと思っていました」
 次元は実際に思った事をそのまま口にした。
 彼の言葉を聞いて、は気を悪くしたような様子もなく、また大きく笑った。
「よく言われるけれど、残念ながら小説は小説ね。フィクションよ」
 は胸元のネックレスを指でもてあそんだ。赤い石のついたそれは、さほど華美でもない古い金細工だったが、彼女を飾るには十分だった。
「もちろん、自分の経験を参考にする事もあるけれど。……例えば、主人公がリゾート先のバーで、あご髭をたくわえたハンサムな東洋系の男性と恋に落ちる話なんかを書いたとしたら、今日あなたとこうしていた事を思い出して書くかもしれないわね」
 言ってからはっと、彼を見上げた。
「ああ、あなたにお願いが」
「なんです?」
 次元が驚いたように言う。
「突然で失礼かもしれないけれど、そのあご髭に少し触らせていただけないかしら?」
「はあ?」
 次元は思わず地声で叫びそうになる。
「今、気がついたのだけれど、私、あご髭を生やした男の人って縁がなくて、一度も触った事がないの」
 彼女はひどく真剣な顔で言った。
 次元が普段の姿でいるのなら、「ケッ、いやなこった」とひとこと言えば終いだろうが、アレン・フェリックスは多分そういう物の言いをする男ではないだろう。
「こんな事を言い出して非常識な女だと思うかもしれないけれど、心配しないで、髭を触る以外は何もしないわ」
 戸惑った顔でじっとの顔を見る次元に、あいかわらずの真剣な顔で彼女は続けた。
 次元はなんだかおかしくなってしまい、くっくっと笑って顎を突き出した。
「どうぞ、マドモアゼル」
 次元が言うと、はそうっと手を差し伸べて、遠慮がちに彼の髭に触れた。最初は表面にそうっと触れて、それから指を差し込んで梳くようにした。大学のレポートを書く時に、こんな顔をしていたに違いないというような、妙にまじめくさった彼女の顔と、そのまるで愛撫されているかのような感覚がアンバランスで、彼はどうにも落ち着かなかった。
「……ありがとう」
 はゆっくりと手を離すと、感謝の言葉を述べ、恥ずかしそうに微笑んだ。
「……お役に立てましたか」
「ええ、とても。思ったよりごわごわしているのね。ありがとう、主人公の恋人が髭を生やしていた場合の描写に、とても役立つわ」
「フィールドワークとは、いつもこんな具合に?」
 次元はからかうように言ってみる。彼女はおかしそうに笑った。
「ミクロ的にはそうかもしれないわね」
 笑いながら、氷の溶けかけたマティーニを飲み干した。
「フィールドワークをして取材をして、そして、どうやって恋愛小説を作り上げるのです?」
「……それは、上手く説明できないわね。いろいろ考えるけれど……例えば……」
 は目の前に新しく置かれたマティーニを、またオリーブでかきまぜた。おそらくそれが彼女の習慣なのだろう。
「例えば、主人公がリゾート先のホテルのバーで、髭を生やしたハンサムとお酒を楽しむとして、良い感じで話が弾んだりしたら……」
 グルグルと満足行くまでグラスの氷をかきまぜると、それを唇に運ぶ。
 彼女がロックグラスの縁に唇をあてゆっくりと酒を口に含ませる様は、ちびりちびりという感じではなく、たっぷりと美味そうに味わうような飲み方で、豪快なようであり、しかしまたなんとも艶っぽかった。
 彼女のグラスのマティーニが減ってゆく様を見ていると、彼女は続けた。
「リゾート先でそんな風になった場合、きっと現実の男女だったら、お酒を飲んだ後、どちらかの部屋に行って一晩過ごす事になるんじゃないかと思うのよ。実際、私もそれはなかなか悪くないと思うけれど……」
 言って、次元の顔を見上げ、笑った。
「小説の中では、それは陳腐だわ。だからそういった展開には、しない。そんな風に考えながら、書いていったりするの」
 次元は灰皿の煙草に手をやるが、それがすっかり燃え尽きてしまっているのに気がついた。
「……現実の方が得てして陳腐なもの、といったところですか。あなたとゴールドスミス氏のように」
 言わなくても良い事を言ってしまったと、次元はすぐに自分で気づいたが、言葉にした後では自分のその口をグラスでふさぐしかなかった。
「ああ、彼は……私に恋をしているわね。でも彼とは寝ない。多分、彼は私と寝たりせず、年に数回仕事で会う度に、恋の気持ちに浸るのが一番幸せだと思うから。そういうのが、私にとっての現実」
 はさらりと言って、しばらくまたグラスをオリーブでかきまぜると両手てぎゅうっとグラスを握った。そんな彼女を、次元は黙ってじっと見る。
「……息抜きの時間をすっかりお邪魔してしまったけれど、あなたと少し話がしたかったの。率直に言うわ」
 はグラスから手を離すと、次元をじっと見た。
 次元も眼鏡の奥から視線を返す。
「……私は本当は今週、ロンドンでガストンに会う予定だったの。取材を依頼していたから……」
 彼女は言葉を選びながら、ゆっくり話した。
「私がドバイに来たのは……名は知れているのに、どこにも姿を現さない、謎めいた伯爵にどうしても会ってみたかったから。それでガストンが突然、ドバイでアークライト卿と落ち合う事になったと聞いて、私も無理に合流させてもらったの」
 次元は自分の眼光がどんどん鋭くなるのを感じながら、彼女を見つめ続けた。
「……それで、私にどうしろと?」
 静かに返した。
「……私がアークライト卿に会いたかった理由はひとつ。彼のコレクションを、一度見せてもらいたいと思っていたの」
 次元はルパンが、アークライト伯爵所蔵、としているコレクションを頭に描いた。
 絵画や彫刻などの美術品の他、宝石類などを彼のコレクションとして一般にも知れるようにしていた。が、その公開はしていない。当然、組織の操作で、公開の依頼などはシャットアウトされるようになっていたわけだが。
「もちろんその件は、おいおい彼に直接交渉させていただこうと思っているわ。あなたに話したかったのは……」
 または少し考え込んで言葉を選んだ。
「……オークションの件よ。ガストンから聞いたのだけれど、ああ、彼を責めないで」
 次元は煙草をくわえて、火をつける。
「オークションの件は、それこそ、私にとってまたとないフィールドワークの一環として、是非同行させていただけないかと思っているの。この件については……下手に言い出せば、ガストンの立場が悪くなるかもしれないし、様子を伺ってあなたから頼んでもらう事はできないかしら。ずうずうしいお願いだとはわかっているけれど……」
 おそらく、大学で教授と卒業単位の話をする時に、こんな顔をしていたに違いない、というような顔では次元を見ていた。
 次元は黙って、何度か煙を吸い込んでは吐き出し、を繰り返した。
「……考えておきましょう。オークションでは、あの、あなたにぞっこんな男に何かねだるおつもりで?」
 次元が少々皮肉っぽく言うと、は目を丸くして、しばらくしてから笑って肩をすくめた。
「それもよく言われるけれど、私はそういうタイプじゃないわ」
 また胸元のネックレスをクルクルと触る。
「……私にはね、音が聴こえるの。多分、普通の人には聴こえない音がね。男の人が私を見て、足の先から耳たぶまで血を昇らせる音。それが、私の生きるパワー」
 静かに言って笑うと、グラスに残ったマティーニを、また美味しそうに唇に含んだ。
「だから、私はこれ以上ガストンから何かをもらう必要なんかないのよ」
 はグラスを置いて、椅子から立ち上がった。
「今夜は楽しかったわ、おやすみなさい」
 かすかなシトラスの香りを残して、彼女はバーを出た。
 次元はルパンの言葉を思い出す。
 確かに、彼女はタチの悪い女だ。
 男の心を喰らって生きる女か。
 かわいそうに、ゴールドスミスは手遅れだ。
 まだ金を絞り取られる方がマシだろうに。
 そんな事を考えながら、次元はわずか残ったバーボンを飲み干す。
 二杯しか飲んでいないのに、やけに酔っ払った気分だった。

Next

2007.2.5




-Powered by HTML DWARF-