恋愛小説家(14)



 峰不二子に砂漠から救出された次元大介は、その翌日、再びジョシュア・アークライト伯爵の秘書アレン・フェリックスとして、ホテル・ブルジュ・アール・アラブの廊下を歩いていた。
 そしてある部屋の前で、はたと足を止める。
 しばし考え込むように指で髭をもてあそび、そして扉をノックした。
 少しの間をおいて、中から部屋の主が扉を開けた。
「あら、おはよう、ええと……アレン」
 真珠色のドレスを身につけたが笑いながら、わざとらしく彼の偽名を呼ぶ。
 次元は黙ったまま、ゆっくりと扉の中へと入っていった。
 恋愛小説家は、昨日砂漠の真ん中に放り出されて遭難しかかった事など、すでに遠い昔の出来事ように、今はドレスアップに夢中だった。
 ダイヤのピアスのスクリューのキャッチを、丁寧にゆっくりと回している。
「……ルパンは何て言ってるか知らねぇが、確か俺ぁ、アンタは今日の一番のエアーでドバイを発つ方が良いと忠告したはずなんだがな」
 むすっとした顔で言う次元を、はじっと見上げながらもう片方のピアスのキャッチをクルクルと回す。
「ここまで来て、クライマックスを見ずに中座できると思う? この私が」
 次元はメタルフレームの眼鏡を外し、内ポケットにしまった。
「……昨日も言ったが、これはフィクションじゃなくてノン・フィクションなんだぜ?」
 ギロリと睨みつける次元の目を、の柔らかい碧の目がじっと見つめ返す。
 次元は彼女の髪にぐいっと手を差し込むと、強引に抱き寄せくちづけた。砂漠で交わしたそれよりも、乱暴に。
「英国貴族とその秘書の東洋系の紳士なんか、いやしねぇ。いるのはサル顔と水虫持ちの泥棒だ。そして人を人とも思わねぇ残酷な宝石ブローカー。現実ってなぁそんなモンなんだぜ」
 驚いた顔で彼を見上げるに、次元は低い声で言った。
 は彼に抱き寄せられたまま、ゆっくりと微笑む。
「……あなたが泥棒なら、私は詐欺師よ。ありもしない嘘の世界の話を描いて、それでお金を稼ぐ。……だから、大丈夫。ちゃんと見届けさせて」
 は指先でそうっと次元の口のまわりについた口紅を拭う。
 次元は前髪をかき上げてため息をついた。
「……ったく、だから、好奇心の強い女ってなぁイヤなんだ」
 はくすくすと笑いながら、指を次元のあご髭に滑らせた。
「そうそう、髭を生やした人とのキスね、私、想像できるなんて言ったけれど、実際にしてみると思っていたより……だいぶ良かったわ。やっぱり現実って、大切ね」
 次元はフンと鼻を鳴らすと、彼女の頬に手を添えて再び唇を重ねた。



 時間になると、三人はオープンルーフのランドローバー・ディフェンダーでルベウス邸まで走る。
 邸内に近づくと、前回の来訪時とは異なる雰囲気に気づいた。
「……ルパン、ドバイ警察だ」
 運転をしながら次元がつぶやく。
「野郎、違法な取引をドバイ警察に守らせるつもりか。さすが地元に顔の利く金持ちは違うねぇ。俺たちは姿を現さねぇと踏んでるだろうに、用心深いこった」
 アークライト卿に扮したルパンは口笛を吹く。
「ったくふてェ野郎だぜ」
 次元は車を邸内に入れた。
 ルベウスの部下達はぎょっとした顔で彼らを見るが、エントランスには丁度到着したてのガストン・ゴールドスミスがいた。
「おお、ぴったりのご到着ですね、伯爵」
 昨日の事など何も知るよしのないゴールドスミスは、呑気に彼らに笑いかける。
 今日は現金を運ばせるための部下を二人同行していた。二人は、黒っぽいスーツを身につけ無表情で体格の良い、無骨な男たちだった。
「なんといっても『シルク』を拝見するチャンスですからね」
 ルパンは静かに言って微笑む。
「……しかしさすがですな。まさか地元警察が警備にあたるとは……」
 ゴールドスミスはさすがに面食らったようにルパンにささやいた。
「……ルベウス氏の人脈の賜物でしょう」
 ルパンは白々しく笑おうとするが、その笑顔は中途半端なままで終わった。
 彼らの前に、サーリム・ダウードを従えたルベウスが静かに姿を現していたからだ。
 二人の表情は、案の定驚きと怒りに満ちたものだった。
 次元大介をとともに始末し、ルパン三世一人ではさすがに手も足も出ず、取引に姿を現す事はあるまいと思っていた事だろう。
 涼しい顔をした三人に向かって、ルベウスはしばらく間をおいた後、いつものように軽く両手を上げて見せた。
「ようこそおいでくださいました。どうぞ、こちらへ」
 若干かすれた声を発したが、顔にはまた例の落ち着いた不敵な表情が戻っていた。
『自前の警備に加え、ドバイ警察の警備の中、コソ泥風情が何をできるものか』
 彼の表情にはそう書いてあった。
 ルパン達は例のオークションが行われた部屋に通された。
 部屋の中と外は、オークションの時と同様の警備がなされている。
 真ん中のテーブルに、取っ手のついたケースが置かれていた。
 ルベウスが静かに歩み寄る。
 そのジュラルミンのケースの上で勿体つけてくるりと手を回し、挑戦的な目でルパンと次元を見た。
「……さあ、これが500カラットのミャンマー産ルビーの原石『シルク』です」
 ケースの蓋を開けた。
 中には、鈍い四角錐が二つ融合したような形の見事な色の原石が鎮座していた。
 次元は思わずため息をつく。
 この、億単位の年月を経て地球の内部から取り出された物質。
 宝石を「美しい」と評価できるのは、人間しかいないというのに、なぜ地球はこんな物質を作り出すのだろうか。
 一瞬、そんな事に思いを馳せる。
「す……素晴らしい! これは是非いただいてゆきます。おっしゃった金額の現金はこちらに用意してありますので、どうぞご確認ください」
 次元の、地球の歴史についての思いを吹き飛ばしたのは、ゴールドスミスの興奮した声だった。彼は同行した部下二人に指示を出し、厳重に運んできた現金の入ったケースをルベウスの前に提示する。ケースと部下の腕をつないでいたチェーンのキーを解除した。
 その時、部屋の外から騒がしい声が聞こえる。
 同時に、ルベウスの隣に控えているダウードに無線連絡が入ったようだった。
「……何? ちょっと待て」
 連絡を受けたダウードはぎょっとした顔をすると、ルベウスに耳打ちをする。
「何だと?」
 ルベウスが眉をひそめ、そして次の指示を出す前に部屋の扉の外が騒がしくなった。
 部屋の中の警備の者が、扉の前に集まる。
 そして、大きな音とともに扉が開いて、耳慣れたダミ声が部屋に響いた。
「ICPOの銭形だ! ICPOテロ課の命を受けて、人身売買に関する調査にやって来たァ!」
 無精髭を剃り落として若干すっきりした顔の銭形警部は、ICPOの部下を引き連れ、ルベウスの部下およびドバイ警察ともみ合いながら部屋に押し込んできた。
 ゴールドスミス、ダウード、そしてルベウスがこれ以上ないというくらいにぎょっとした顔で、混沌と揉み合う警察官達と仁王立ちになる銭形警部を見つめていた。
「貴様がルベウスだな。この屋敷内に、人身売買の被害者が監禁されており、そして貴様がこのドバイでの黒幕だという通報があった。調べさせてもらうぞ」
 銭形がルベウスに向かってつきつけたのは、五右ェ門が調べてルパンに提出した資料だった。
 ルベウスはギリギリと歯噛みしながらも、ギッと銭形警部をにらみつけた。
 そして、目で人を殺せそうな顔をしてルパンを見る。
 ルパンはニッと笑った。マスクはかぶっているが、すっかりルパン三世の表情だった。
「アテが外れたなァ、ルベウス。このとっつぁんはルパン三世の逮捕に命をかけちゃいるが、それ以上に正義の人なのヨ」
「ぐ……こんな馬鹿馬鹿しい騒ぎを起こしてもムダだ。ICPOより地元警察に捜査権がある。ICPOが来たからって、お前は金もルビーも手に入れる事などできん」
 ルベウスは怒りで震えながら大きく呼吸をし、無線で部下に連絡を入れようとする。
「さあ、それはどうかな?」
 ルパンは相変わらずの表情でルベウスに言い放った。
 それと同時に、部屋の外ではもうひとつの騒ぎが起こった。
 次にやってきたのは、カメラやマイクを持った大量のプレスだった。
「あっ、すいません、の『ジュメイラ・ビーチ』クランクインに際しての記者会見がこちらで行われると連絡を受けたんですが、この部屋ですかねぇ」
 一人の記者が銭形警部に甲高い声で尋ねた。
「俺がそんな事など知るわけない。俺はICPOの銭形だ」
 銭形警部はそ知らぬ顔で答える。
 部屋の中も外もパニックだった。
 ICPOの登場ですでに震え上がっていたゴールドスミスは、あわてて部下の名を呼ぶ。
「イルワン、デヴィッド、と……とにかく、金を……車に戻せ……! 帰るぞ!」
「了解です」
 現金の入ったケースを運ぶスーツの二人は、勢い良く返事をする。
 しかし笑顔でケースを手にしていたその二人は、例の無骨な男たちではなく、石川五右ェ門と峰不二子だった。
「……あ……!」
 ゴールドスミスは目を丸くしたまま、声も出ない。
 ドバイ警察とICPOとプレスがもみくちゃになっているなか、するりと部屋を出てゆく二人を、ゴールドスミスはなすすべもなく追って行った。どこかで気を失わされているだろう部下の名を呼びながら。
「さて、俺たちもずらかるぜ」
 感心したように騒ぎを眺めているに、次元が声をかけた。
 銭形と口論しているルベウスを尻目に、ルパンはちゃっかりテーブルの上のルビーをケースごと手にする。
「……貴様……! ダウード、奴を部屋から出すな! 石を取り返せ! 警察、何をやっている!」
「ルパン! それとこれとは別だ! 盗みは許さん、逮捕する! おい、ルベウスは俺に任せて、後のものはルパンを取り押さえろ!」
 ルベウスと銭形警部の声が部屋の中で響く。
「ちょっと! 記者会見はどうなってるんですかあ! これはもうロケなんですかあ?」
 そこにフラッシュを焚くカメラを持ったプレスも入り乱れ、ICPOもドバイ警察も身動きの取れない状態だった。
 その中で、ルパンはこの窓のない部屋で壁に向かってゆっくりと歩いてゆく。
「ねえ、次元、ここからどうやって出るの? こんなすごい騒ぎになるとは思わなかったわ」
 は次元に手を引かれながら、心配そうにたずねる。
「まあ、見てな」
 ルパンはすました顔で、トンっと壁を指でつついた。
 すると、美しい弧の形に、部屋の壁がしっくいごと崩れ落ちる。
 石川五右ェ門の置き土産だった。
「さて、行くぜ!」
 次元は驚いた顔のの手を更に強く握ると、その壁に開いた穴から外に飛び出し、ディフェンダーに飛び乗った。三人が乗り込むと、ルパンが勢い良く車を出す。
 ルベウスと銭形警部の怒号が背後で小さくなっていった。
 運転席では痛快そうに笑うルパンが、ようやくマスクを剥ぎ取ってそれを邪魔そうに外へ放った。
 そんな彼を、が助手席から感心したように見つめていた。
「あなたが、ルパン三世ね。はじめまして」
 愉快そうに笑って言う。
「こちらこそはじめまして、著名な恋愛小説家にお目にかかれて光栄です」
 ルパンはうやうやしく言って笑う。
「……きみのご先祖もなかなかの泥棒だったらしいが、現代の大泥棒ルパン三世も捨てたモンじゃないだろ?」
 は白い歯を見せながら笑って、風になびく髪を手で押さえた。
「最高よ。これでもう、私はあなたのピンブローチを見る必要はないわ。こんな素敵なノン・フィクションをリアルタイムで見せてもらったんだもの。昔話は卒業」
 は車の中で立ち上がり、ドレスをたなびかせながら遠くの砂漠を見つめた。


 ドバイの町に戻って、はディフェンダーを降りた。
「じゃあ、俺たちは空港が封鎖される前に新しい顔でトンズラする。アンタも気をつけてパリに帰りな」
 次元が車の中から言った。
「ええ、いろいろありがとう」
 は碧の瞳でじっと次元を見つめた。
「……ひとつだけ尋ねたいんだが……」
 次元は、いつのまにかちゃっかりとかぶっている愛用の帽子の鍔をきゅっと下げて言った。
「……例えばアンタの小説では、リゾート地で出会った恋愛小説家と水虫持ちの泥棒ってなぁ、一体その後どうなるんだ?」
 は目を丸くしたまま、車に一歩二歩近寄って、次元の帽子の下からその顔を覗き込んだ。
「そうね、多分リゾートの後、二人はパリのジョルジュ・サンクあたりで落ち合って、ル・サンクで食事とコート・デュローヌ産の赤ワインを楽しんだりするんだと思うわ」
 彼女は一瞬照れくさそうにうつむいた後、いつもの太陽のような笑顔で言った。
「……陳腐だな」
 ニッと笑いながらつぶやく次元の口元に、はそっとくちづけた。
「現実も小説も、結末っていうのは得てしてそういうものよ。じゃあね、水虫持ちの泥棒さん」
 は車からすっと離れて手を振った。
「じゃあな、恋愛小説家」
 次元がぎゅっと帽子を押さえると、車は空港に向かって走り出した。


 その後、恋愛小説家と水虫持ちの泥棒がどうなったか?
 それは、もうすぐ書店に並ぶ、の新刊を読んで確認して欲しい。


Fin

2007.4.17

<参考文献>
1) パトリック・ヴォワイヨ著, 遠藤ゆかり訳,「宝石の歴史」, 創元社,2006
2) 特集:「砂漠に咲いた夢 ドバイ」,ナショナルジオグラフィック日本版, vol.13(2),2007
3) カール・シファキス著, 鶴田文訳, 「詐欺とペテンの大百科」, 青土社, 2001
4) ジョェル・レヴィ著, 「詐欺師ハンドブック」, トランスワールドジャパン, 2006




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