パリの恋人
ジュネーブ空港のデパーチャーゲートを、二人は歩いていた。
パリ行きの便を待つ。
次元は隣を歩くマリーをちらりと見た。
蜂蜜色の長い髪に、オフホワイトの柔らかなドレス。
まるで上品なケーキのようだった。
「……なあに?次元」
彼を見上げて不思議そうに言う彼女に、何も答えず歩き続け、そしてケースに入ったクリスタルを持ったまま搭乗ゲートの前の椅子に座る。
彼女もそれに続いた。
ふわりと、甘い香りが彼の鼻をくすぐった。
「荷物、こっちに置いたらいい」
マリーの手荷物を隣に置こうと受取った。
その時に彼の毛むくじゃらの手がマリーに触れる。
マリーがびくりとするのがわかった。
次元は笑い出しそうなのを必死でこらえる。
なんというか、幸福な気分だった。
今日の午後、二人でピンク色の甘いシャンパンを飲んだ後、次元はシャンパンより甘露なものをたっぷり味わった。
晴れやかな昼下がり、マリーは彼の腕の中で甘い声をかみ殺しながら、何度も体を跳ねさせた。戸惑ったような、泣きそうな顔、彼の愛撫への敏感な反応。
次元はそれまでのすべて、これからのすべてが吹き飛ぶ思いで、夢中になって彼女を抱いた。ルパンからの電話にも気づかぬほど。
マリーが感じていて、そして戸惑うような苦しそうな反応を見せるたびに、次元はまるで脳が爆発するような陶酔を感じた。
今、空港で彼の隣に座っているマリー・ブリル。
数時間前まで、彼の下で泣いていた愛らしい女。
品の良い装いで凛と姿勢を正している彼女に、改めて見ほれた。
「……なあに、さっきから。……私、どこか変?」
マリーは不安そうに髪や服の襟元に触れる。
「いや、別におかしかねぇよ」
次元はにやにやしながら彼女を見つめた。
「じゃあ、なあに?」
マリーは少しムッとしたように尋ねる。
「……いや、アンタ……初めてだったんだろうな、と思ってな」
「何が?」
マリーは首をかしげて尋ねる。
「……オトコと寝て、あんな顔を見せるのが、さ」
笑いながら次元がささやくと、マリーはカッと顔を赤くして立ち上がる。
「おいおい、座っとけよ」
次元は驚いて彼女をたしなめる。
マリーは大きく息をつくとゆっくりと座って、ふいとそっぽを向いた。
「……怒ったのか?」
「……こんなところで、変な事言わないで」
「悪い。男ってなぁ、どうしようもない生き物なんでね」
構わずに次元はくっくっと笑ってしまう。
「……初めてこの空港であんたを見た時、イイ女だなと、ぼーっと見てた」
次元の言葉に、マリーはそむけていた顔をふいと戻す。
「連れの男がコルテラで、ああコイツがこのイイ女をモノにしてやがるのか、と憎ったらしかったのさ、実は」
膝の上のケースをぽんぽんとたたきながら、笑って次元は続けた。
マリーは驚いたような顔をして彼を見上げる。
「そんな女を、俺が初めて天国に連れて行ったんだ。少々ニヤついて見てたって、罰は当たらねぇだろ、俺の姫君」
冗談めかして言うと次元は彼女の手を取って、そっと口付けた。
見えないけれど、彼女がまた顔を赤らめるのがわかる。
手の甲に唇がふれると、彼女の手がびくりとふるえ、少し体温が上がるのを感じたから。
顔を上げて彼女の顔を見た。
少し潤んだ瞳に蒸気した頬、戸惑った表情。
たまらなくセクシーだった。
彼の膝の上の物について、シャル・バレイの言っていた言葉を思い出す。
『持っていても仕方のない者が持つより、価値のわかる者が持つべきだ』
次元はそのままマリーを見つめる。
気持ちの優しい美しい、普通の女。
意地を通そうと力を尽くせる、普通の女。
彼女のそういうところが、次元の心をとらえる。
そんな女をモノにしておきながら、グラビアモデルといちゃつくフレデリック・コルテラには、きっとわかるまい。
わからない男がモノにしていても意味がない。イイ女ってモノは。
握ったままのその手にもう一度くちづける。
「……私があなたの姫君ですって?何を言ってるの?」
不機嫌そうに言う彼女を、次元は目を丸くして見つめ、そっとその手を離した。
自由になった手で、マリーは次元の帽子を取って自分の頭に載せる。
「おい、なんのマネだ?」
取り返そうとする彼の手を軽く払った。
次元がいつもしているように目深に被り、脚を組んで言う。
「あなたが、私の銃なのよ」
少しオクターヴの高い声で言う彼女の声を聞いて、そしてしばし、自分の帽子の下からのぞいている小さな顎、波打った長い髪をじっと見つめていた。
帽子を取り返すと、その下から現れた彼女は恥ずかしげにうつむく。
「……あなたみたいに帽子をかぶったら、格好つけた事も平気で言えるのかしらって思ったけど、やっぱりダメね」
顔を赤らめたまま笑う。
次元は帽子を膝の上のクリスタルの上に置いた。
「で、手に入れた銃はどうだったんだ?満足か?え?」
ニヤニヤしながら言うと、置いた帽子がさっと彼女の手で目深にかぶせられる。
「……帽子取って顔を見せてたら素敵なのに、どうしてそういうコト言うの!」
マリーは顔を赤くしたまま怒ったようにまくしたてた。
「そりゃあ……」
ぎゅう、とかぶせられた帽子をちょいともちあげて、おかしそうに次元は続けた。
「あんたのそういうところが、たまらないからさ」
長く肩に流れている蜂蜜色の髪をくるりと指に巻きつけた。
「……良い銃だっただろう?」
顔を近づけるとささやくように言って、そっとキスをして、するっと髪を指からほどく。
マリーはため息をついて椅子の背もたれに体を預けた。
「……oui」
つぶやいて、観念したようにふっくらした唇をほころばせて彼を見た。
マリーをつついてからかって、やりこめてやろうと思ったのに。
そんな彼女を見ていると、また、たまらなく抱きたくなる。
口にしたらきっと、chaud lapin……熱いウサギちゃん、とからかわれる事だろう。
彼の考えが伝わったのか、マリーは彼を見てくすくす笑う。
次元も口の端を持ち上げながら帽子の位置を直していると、通路を本物のchaud lapinと、刀を預け荷物にされて落ち着かなさげな剣士がやって来るのが見えた。
次元は肩をすくめて、帽子に添えた指で彼らを指すとバーンと撃ちぬくマネをしてフッと笑う。
しばらくはパリにあるルパンのラボで、クリスタルが映す文様の解読に取り組むことになるだろう。
今回ばかりは、それはルパンに任せよう。
ルパンは身にしみてよくわかっているはずだ。
同じ町に恋人がいたら、男がどんなに忙しくて、そして使い物にならないか。
恋人よ、俺が使い物にならない男だと奴に見せてやってくれないか、と、サインを出しながらマリーを見るが、彼女は訳のわからないような顔で次元とルパンたちを交互に見るだけ。
それでもそんな次元を見たルパンは、一発で彼を「使い物にならない男」審査に通過させたようで、不機嫌そうに下唇を突き出してみせると彼の膝からクリスタルを持ち上げるのだった。
恋人よ、俺は当分の間、お前の銃としてだけ生きていれば良いらしい。
どうだい恋人よ、そんな贅沢な、パリの初夏の日々。
Fin